島田 朋三郎(しまだ ともさぶろう、1882年(明治15年)3月12日[1] - 1945年(昭和20年)9月4日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍法務中将。
経歴
1882年(明治15年)に徳島県で生まれた[1]。東京帝国大学法学部を卒業し[2]、高等試験司法科試験に合格。文官として陸軍法務部に奉職する[2]。各師団の法務部長などを歴任し[2]、甘粕事件・五・一五事件の軍法会議に法務官として参加している[2]。その後第1師団法務部長に就任し[3]、1935年(昭和10年)に発生した相沢事件を裁いた軍法会議に検察官として参加し、相沢三郎に死刑を求刑した[2][3]。
1938年(昭和13年)に関東軍隷下の第4軍法務部長に転じ[3][4]、1939年(昭和14年)に支那派遣軍法務部長を経て[4]、1940年(昭和15年)に東部軍法務部長に就任[1]。1942年(昭和17年)に法務官は武官制に移行し、島田は法務少将となる[3]。東部軍法務部長としては、1944年(昭和19年)に津野田知重少佐が東条英機の暗殺を企てた事件の軍法会議や、1945年(昭和20年)に行われた吉田茂の逮捕に関与したとされる[3]。
1944年(昭和19年)3月1日に陸軍法務中将に進級し[5]、1945年(昭和20年)1月29日に兼第12方面軍法務部長[5]。同年4月7日に第1総軍法務部長に転じ[1]、終戦を迎えた[3]。島田は日本軍による捕虜虐待や撃墜したB-29搭乗員の処刑など、法務関係の責任を取ると遺言を遺し[6]、9月4日に赤坂区霊南坂の官舎で拳銃自決した[4][6]。