山本 安英(やまもと やすえ、1902年(明治35年)10月29日[1] / 1906年(明治39年)12月29日[2] - 1993年(平成5年)10月20日[1])は、日本の新劇女優・朗読家。築地小劇場の創立第一期メンバーでもある。東京・神田出身。
来歴・人物
- 本名は山本千代(やまもと ちよ)。神奈川高等女学校(現神奈川学園高等学校)卒業。
- 1921年(大正10年)に歌舞伎俳優二代目市川左団次主宰の「現代劇女優養成所」に入り、1921年12月左団次一座の帝劇興行小山内薫原作:「第一の世界」で初舞台を踏む。養成所では、後に新劇運動の中心となる小山内薫、土方与志の指導を受けた。1924年(大正13年)小山内薫、土方与志によって創設された「築地小劇場」の創立に参加、第1回研究生となる。後々まで活躍した、東山千栄子、岸輝子、村瀬幸子、夏川静江、田村秋子、細川ちか子、高橋豊子、千田是也、薄田研二、滝沢修、青山杉作、丸山定夫などがいた。1927年に杉村春子が入団、1928年には長岡輝子も入団している。「築地の娘」・「新劇の聖女」と呼ばれ、1928年に小山内薫が死去し、翌29年3月に分裂するまで4年9ヶ月の間に内外戯曲117編のうち67編に主演している。第一世代と共に新劇の基礎を築いた。
- 1922年、ライオン歯磨に入社し、同社にいた詩人の大手拓次から思慕されるが、翌年退社し大手を失恋せしめる。(生方たつゑ『娶らざる詩人 大手拓次の生涯』東京美術)
- 1929年4月から「新築地劇団」の創立に参加。プロレタリア演劇運動の最盛期、29年7月「蟹工船」事件が起こり、新築地劇団は左翼劇場と関係を持つようになる。1940年8月警視庁特高課は新築地劇団と新協劇団を「社会主義的色彩の濃い赤の思想で国情に適さない」という理由から「治安維持法」により強制解散させられた。終戦まで、日本で最初の声優養成所、NHK内にある「東京放送劇団養成所」の専属講師などをしていた。第一期卒業生に加藤道子、七尾伶子、中村紀子子がいる。
- 戦後、1947年に劇作家木下順二らと「(ぶどうの会)」を結成した。1948年「鶴女房」をもう一度書き直したいと想を練り、日本の民話「鶴の恩返し」を題材とした作品、翌1949年原作:木下順二が、山本安英のために書き下ろした戯曲「夕鶴」を発表。初演されたのは1949年(昭和24年)10月27日のこと。場所は奈良県天理市の「天理教講堂」であった。当時は物資が不足していた時代であった。人々の心は物欲にとらわれてすさびきっていた。一人一人の心をまるで洗うために作られたような「夕鶴」は、その初演で観客に人間性の回復を訴えた。戦後の荒廃期から全国各地の人々の心を洗い続けてきた主人公つうを演じ、代表作となる。まるで鶴の化身のような見事な演技は谷崎潤一郎も絶賛したと言われている。1964年の「ぶどうの会」解散後、1965年「山本安英の会」を主宰。山本安英一人が会員という形式で活動していた。1984年7月25日「福島市公会堂」での公演で1000回を達成した。その後も、「一千回達成記念公演」を全国各地で公演した。1949年から1986年までの37年間に上演回数1037回の記録は日本の演劇史上に金字塔を打ち立てた。1990年森光子の「放浪記」に抜かれるまでロングラン上演回数のトップであった。
- また、1967年12月「いらっしゃいませ」という山本のことばで始まる毎月第三木曜日の「(ことばの勉強会)」は26年にわたって第279回まで続けた。趣旨は、「直接的には新劇のせりふ術、朗読術確立のために、また全体としては芸術創造のことばとしての日本語の表現力を高め、発展させるために役立つ研究と討論を行なう」ことであった。講師も多方面にわたって、そうそうたる面々が延べて350人を超し参加、一貫した三本柱というものが、「日本古典の原文による朗読はどこまで可能か、そして朗読術、地域語(方言の問題)」の三つであって、いずれも上演作品の内容と関係している。
- 1979年に新劇だけでなく、能、狂言、歌舞伎その他諸ジャンルが対等に力を合わせなければ成り立たない木下順二作:群読劇「子午線の祀り」が発表された。この作品は、ジャンルを越えた出演者が源氏と平家両軍を物語るもので、新劇と、かつて旧劇と批判した日本の伝統芸能との融合を目指す試みである。山本は「家を抵当に入れても上演させてみせますよ」と意気込み、現実と超現実をつなぐ(影身の内侍)を演じ、第五次公演157回まで出演した。1992年1月2月銀座セゾン劇場で上演された「子午線の祀り」第五次公演が最後の舞台となった。日本語の美しい発音にこだわった一人である。美内すずえの大河少女漫画「ガラスの仮面」の登場人物・月影千草は山本安英をモデルにしたと言われている。1993年(平成5年)10月20日急性呼吸不全のため東京都文京区千駄木の自宅で死去。享年92(満90歳)死後、山本安英の会記念基金運営委員会によって、山本安英の会記念基金助成賞「山本安英賞」が創設された。
受賞
舞台
- 1936年「結婚」ゴーゴリ
- 1936年「スガナレル」モリエール
- 1936年「女人哀詞」山本有三
- 1937年「陸を往く船」和田勝一
- 1937年「渡辺崋山」藤森成吉
- 1937年「どん底]」ゴーリキー
- 1937年「土」長塚節
- 1938年「綴方教室」豊田正子
- 1938年「子もり良寛」高倉テル
- 1938年「金銭」伊藤貞助
- 1938年「武蔵野」梅木重吉
- 1946年「人形の家」イプセン
- 1947年「林檎園日記」久保栄
- 1949年「山脈」木下順二
- 1949年「夕鶴」木下順二 - 1986年までの37年間に上演回数1037回
- 1949年「慾の化粧」正宗白鳥
- 1952年「蛙昇天」木下順二
- 1953年「瓜子姫とあまんじゃく」木下順二
- 1953年「風浪」木下順二
- 1955年「二十二夜待ち」木下順二
- 1955年「赤い陣羽織」木下順二
- 1955年「ベルナルダ・アルバの家」ガルシア・ロルカ
- 1957年「おんにょろ盛衰記」木下順二
- 1959年「東の国にて」木下順二
- 1962年「花若」木下順二
- 1963年「沖縄」木下順二
- 1966年「陽気な地獄破り」木下順二
- 1976年「群読・龍が見える時」木下順二
- 1979年「子午線の祀り」木下順二 - 「第一次公演」から1992年「第五次公演」157回まで出演
映画
著書
出典
参考文献
- 宮岸泰治『女優 山本安英』(影書房 2006年)
- 『夕鶴 写真で読む』(山本安英の会編、薗部澄撮影、童牛社 1993年)
- 『山本安英舞台写真集』(岡倉士朗・木下順二編、未來社 1960年)、資料篇と分冊
- 『日本語の発見 ことばの勉強1』(山本安英の会編、未來社 1978年)
- 『きくとよむ ことばの勉強2』(同上 1977年)
- 『自分のことばをつくる ことばの勉強3』(同上 1984年)
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