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小倉隆史

小倉 隆史(おぐら たかふみ、1973年7月6日 - )は、三重県鈴鹿市出身の元サッカー選手。サッカー指導者、解説者タレント。2016シーズンにJリーグ名古屋グランパスゼネラルマネージャー兼監督を務めた。現役時代のポジションはフォワード

小倉 隆史
名前
愛称 オグ、レフティーモンスター
カタカナ オグラ タカフミ
ラテン文字 OGURA Takafumi
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1973-07-06) 1973年7月6日(49歳)
出身地 三重県鈴鹿市
身長 183cm
体重 78kg
選手情報
ポジション FW
利き足 左足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1992-2000 名古屋グランパス 90 (21)
1993-1994 エクセルシオール (loan) 31 (14[1])
2000 ジェフユナイテッド市原 (loan) 24 (3)
2001 東京ヴェルディ1969 25 (3)
2002 コンサドーレ札幌 27 (7)
2003-2005 ヴァンフォーレ甲府 75 (18)
代表歴
1994[2] 日本 5 (1)
監督歴
2016 名古屋グランパス
2021- FC.ISE-SHIMA
1. 国内リーグ戦に限る。2007年12月20日現在。
(■テンプレート)((■ノート) ■解説■サッカー選手pj

人物

愛称はオグ。現役時代は左足から繰り出す強烈なシュートを得意としていたことから「レフティーモンスター」(サッカーライターの金子達仁が命名[要出典])と呼ばれた天才プレイヤー[3]。プロ入りから間もなく海外留学を経験し将来は日本代表の中心選手となることも期待された選手であったが、プロ5年目の日本代表合宿での怪我が原因となり以降は思うようなプレーができなかった[3][4]

プロ入り前の四日市中央工業高校時代は中西永輔中田一三と同級生であり、3人は「四中工三羽烏」と呼ばれた。それぞれ別のJリーグクラブでプロデビューするものの、2000年にはジェフユナイテッド市原で3人揃って同じクラブでのプレーが実現した。なお、高校の1学年下には水原大樹がいた[5]

来歴

プロ入り前

野球ソフトボールに携わっていた両親の影響もあり、幼少期は4歳上の兄とともに野球をしていた[3]。小倉が小学校1年生の夏に地元の少年サッカーチームが三重県代表として全国大会に出場し、地元の野球チームは4年生からしか入れなかったこともあり、父の勧めで「足腰を鍛えるため」にサッカーチームに入る[3]。3年生になると6年生のチームでプレーするなどサッカーの楽しさが分かるようになり、以降はサッカーに打ち込むようになる[3]

高校は四日市中央工業高校に進学。3年生時には1991年度の『第70回全国高等学校サッカー選手権大会』で優勝(帝京高校との両校同時優勝)[3]。この活躍が転機となり1993年開幕のJリーグ参加予定の複数クラブからのオファーを受けるが、『キャプテン翼』の影響などで漠然と「プロは海外でプレーするものだ」と考えていた小倉は、オファーのあった全てのクラブに「海外留学をさせてもらえるか」を尋ねた[3][6]。多くのクラブが数ヶ月単位の回答であった中、名古屋グランパスエイトの監督であった平木隆三が「1年でも2年でも行けばいい」と答えたことが決め手となり、1992年に名古屋グランパスエイトに入団した[3][6]

クラブ遍歴

Jリーグのプレマッチとして行われた1992年のJリーグカップでプロデビュー[6]

1993年にはオランダへと渡るが[3]、当時のJリーグではレンタル移籍制度が採用されておらず「オランダ留学」とされていた。小倉は当初フェイエノールトに入るが当時はまだ日本人が海外に渡る環境が整っておらず、またフェイエノールトでは試合出場も難しかったことから、GMを務めていたビム・ヤンセンは小倉に「日本に帰る」か「エクセルシオールのテストを受ける」ことを提案する[3]。小倉はビム・ヤンセンの紹介でエクセルシオールの練習試合に参加し、小倉のプレーを見たエクセルシオールの監督からの勧誘を受けて入団し、途中加入にもかかわらずリーグ戦で15得点を挙げて得点王争い加わった[3]

1994年にはフェイエノールトほか数々のクラブからオファーを受けるが、名古屋グランパスエイトからの帰国要請や、メキシコ五輪以来となる28年ぶりの五輪出場を目指す日本サッカー協会とU-22日本代表監督西野朗からの代表招集と強い説得もあったことから、全てのオファーを断りアトランタ五輪出場のためシーズン途中からJリーグに復帰した。復帰した1994年の名古屋はゴードン・ミルンが監督を務めていたが、年間9位であった前年以上の低迷を強いられており[8]、小倉のボランチへのコンバートを試みるなど試行錯誤が繰り返された。

1995年アーセン・ベンゲルが監督に就任すると名古屋は転換期を迎えるが、小倉は6月14日のアトランタ五輪アジア1次予選タイ戦で右ひざの靭帯を痛める怪我を負った[9]。8月12日のNICOSシリーズ開幕戦から復帰するとストイコビッチと2トップを組んで活躍し、天皇杯では決勝で2ゴールを挙げて初タイトルに貢献した[9][10]

1996年2月、アトランタ五輪最終予選直前の合宿で右足後十字靭帯を断裂の大怪我を負う[10][3]。日本国内で一度目の手術を受けるが、当時の日本では後十字靭帯の手術は難しく手術は失敗に終わった[3][4]。この怪我によって得意の「左斜め45度から逆サイドを狙ったシュート」が打てなくなり、8ヶ月間のリハビリを受けながら[3]リーグ戦は14試合に出場したものの1得点のみと大きく成績を落とす。オフに再手術を受けるためにオランダへと渡り、リハビリに1年半を要したために1997年は全休する[3]1998年シーズン途中に実戦復帰するものの、これ以降ひざの状態と成績が元に戻ることはなかった[3][10][4]

2000年ジェフユナイテッド市原(期限付き移籍)、2001年東京ヴェルディ19692002年コンサドーレ札幌と毎年移籍を繰り返し、2003年に移籍したJ2ヴァンフォーレ甲府で3年間を過ごす。2003年・2004年は中心選手として活躍しするが、2005年は若手の台頭と戦術面や大木武に対する批判などから出場機会を失い、この年甲府はJ1に昇格するものの、オフに小倉は戦力外通告を受けた。最後の出場は第36節のベガルタ仙台戦(仙台スタジアム)であった。

小倉は現役続行を希望して2006年1月10日合同トライアウトに参加するが、オファーはなく2月10日に現役引退を宣言した。最後に所属した甲府がJ1としての初試合を行った2006年3月5日に、ホームスタジアムの山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場でのシーズン開幕戦(vs清水エスパルス)の試合前に小倉の引退セレモニーが行われた。

日本代表

1994年に帰国すると、早々にファルカン率いる日本代表にも選ばれ、その年のキリンカップでA代表デビューを果たす。フランス戦では途中出場ながら三浦知良と2トップを組み、エリック・カントナジャン=ピエール・パパンディディエ・デシャンマルセル・デサイーら錚々たるベストメンバーのフランスから劣勢の中、A代表初ゴールを奪う活躍を見せた。

アトランタ五輪に向けたU-22日本代表としても選出されチームの軸とも言える活躍をするが、日本代表としての1995年6月の試合中・1996年2月の練習中の2度の怪我を負い、特に2度目の怪我は致命的であった[3][10]。小倉は怪我から復帰するものの、以降日本代表に選出されることはなかった[3]

引退後

引退後には、スーパーサッカーNEWS23などの解説者として抜擢され、テレビ中継の解説[11] なども精力的に行っている。その一方で、2012年には日本サッカー協会のJFA 公認S級コーチライセンスを取得[12]

2015年6月1日付で名古屋グランパスのGM補佐に就任[13]。2016年にはGM兼監督となり、前任の西野朗体制下でも足枷となっていたストイコビッチ体制で生じた若手の練度不足という負の遺産[14][15]からの脱却のためにチームの全権が委ねられたが[13]、「ビジネスライクで情を欠いた」とも受け取られた選手との交渉姿勢は田中マルクス闘莉王などの流出を招いた[16][17]。1stステージ開幕戦から第10節までの9試合はほぼ5分の成績であったが[16][17]、監督1年目の小倉は指導者としての経験不足だったとも指摘され、対策されると対応ができずに1stステージ第11節から2ndステージ第9節までの17試合で1勝も挙げることもできずに8月23日に事実上解任された[13][18][19]。後任にはジュロヴスキーが就任して成績は上向くものの、このシーズンはクラブ史上最悪の連続未勝利18試合のワースト記録を作り[20]、最終成績16位で初のJ2降格が決定した[16][17][18]。11月19日に監督職については契約満了、GM職については、双方合意の上、契約解除することが発表された[21]。(詳細は(名古屋グランパスエイト#2016年)を参照)

2017年3月11日、地元三重県のクラブで東海社会人サッカーリーグに所属するFC.ISE-SHIMAのクラブアドバイザーに就任した事が発表された[22]。2018年12月より、FC.ISE-SHIMAの理事長に就任[23]。2020年12月27日にFC.ISE-SHIMAの監督(理事長兼任)に就任した事が発表された[24]

エピソード

  • 四日市中央工業高校時代の背番号は17番(小倉が1年時に3年生でエースの水嶋勇夫が付けていた背番号。水嶋は抜群の得点感覚を持ち、バルセロナ五輪予選代表候補にも選出されていた)であった。サッカー選手としては補欠番号の印象ではあるが、四日市中央工業高校では17番は今もなおエースナンバーである。
  • 2000年から2002年にかけて、所属先を変えながら3年連続でオールスターメンバーに選出されている。
  • フリーキックには定評があり、名古屋時代はチームメイトで当時のエース、ジョルジーニョらに「俺に蹴らせてくれ」と頼んでいる姿もピッチの上でしばしば見られた。現に現役生活の後半ではFKのみならずCKなどプレースキックを数多く担っている。
  • スーパーサッカー』(TBS系列)の2008年5月11日放送から小倉隆史プロデュース企画「ボレーの虎」がスタート、番組平均視聴率は4.6%を記録した。

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 (リーグ杯)(オープン杯) 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1992 名古屋 - J - 10 5 0 0 10 5
1993 0 0 0 0 - 0 0
オランダ リーグ戦 リーグ杯KNVBカップ 期間通算
1993-94 エクセルシオール エールステ・ディヴィジ 31 14 2 4 - 33 18
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1994 名古屋 - J 23 5 1 0 2 0 26 5
1995 37 14 - 5 5 42 19
1996 14 1 4 2 0 0 18 3
1997 11 0 0 0 0 0 0 0 0
1998 19 13 1 0 0 2 1 15 2
1999 J1 3 0 4 0 0 0 7 0
2000 市原 31 24 3 1 1 3 1 28 5
2001 東京V 19 25 3 1 0 3 0 29 3
2002 札幌 17 27 7 6 1 1 0 34 8
2003 甲府 16 J2 27 10 - 3 1 30 11
2004 11 40 6 - 1 0 41 6
2005 8 2 - 0 0 8 2
通算 日本 J1 166 34
日本 J2 75 18 - 4 1 79 19
オランダ エールステ・ディヴィジ 31 14 2 4 - 33 18
総通算 153 67

その他の公式戦


出場大会

代表歴

出場大会など

試合数

  • 国際Aマッチ 5試合 1得点 (1994年)[2]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
1994 5 1
通算 5 1

指導歴

関連情報

テレビ・ラジオ番組

バラエティー番組

関連項目

脚注

  1. ^ Voetbal International - Takafumi Ogura
  2. ^ a b “小倉 隆史”. サッカー日本代表データベース. http://www.jfootball-db.com/players_a/takafumi_ogura.html 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r “天馬空を行く 稀代のストライカーが今だから話す 地方創生への思い、人間力の重要性”. 注目企業.com (2022年1月). 2023年3月27日閲覧。
  4. ^ a b c “苦悩と栄光は紙一重。日本の「ガラスの天才」10人。怪我に泣いた最高級の才能たち (7) FW:小倉隆史”. FOOT BALL CHANNNEL (2023年1月4日). 2023年3月27日閲覧。
  5. ^ 「OB Talk」
  6. ^ a b c “【わたしと、瑞穂スタジアム】vol.6 小倉隆史さん「すごく大きな経験をさせてもらった」”. INSIDE GRAMPUS (2020年11月27日). 2023年3月1日閲覧。
  7. ^ 杉山茂樹『4-2-3-1 サッカーを戦術から理解する』 (光文社新書)
  8. ^ (飯尾篤史) (2018年1月31日). “証言でたどる「ベンゲルがいた名古屋グランパス」がもたらしたもの”. web Sportiva. 2021年4月6日閲覧。
  9. ^ a b 飯尾篤史 (2018年2月19日). “ピクシーのイライラが消えた。ベンゲルがタクトを振り、選手が応える”. web Sportiva. 2021年4月6日閲覧。
  10. ^ a b c d (栗原正夫) (2020年1月1日). ““レフティーモンスター”小倉隆史の軌跡 選手権で煌めき、あのケガで終わる…”. Sports navi. 2023年3月2日閲覧。
  11. ^ TBSテレビ山梨放送千葉テレビ中京テレビ(地上波のみ)、日本テレビ全国高等学校サッカー選手権・全国大会など)
  12. ^ 「S級コーチに小倉、前園氏ら=サッカー」 時事通信社 2012年9月14日閲覧
  13. ^ a b c (栗原正夫) (2020年1月1日). “名古屋での失敗を糧に…新たなチャレンジへ 小倉隆史は理事長としてJリーグを目指す”. スポーツナビ. 2021年4月7日閲覧。
  14. ^ (今井雄一朗) (2013年12月13日). “ストイコビッチ名古屋の軌跡と功罪 幸せだった“妖精”との6年間”. Yahoo!スポーツ. 2021年4月7日閲覧。
  15. ^ 今井雄一朗 (2015年10月14日). “西野監督はなぜ今季で契約満了となったのか。名古屋での2年間を振り返る(尾張名古屋の健筆家・今井雄一朗による一言解説)”. J論. 2021年4月13日閲覧。
  16. ^ a b c 藤江直人 (2016年11月7日). “名古屋、J2降格という悪夢。GM兼任監督のもとで迷走。クラブが抱えてきた構造的欠陥”. FOOTBALL CHANNNEL. 2021年4月15日閲覧。
  17. ^ a b c 今井雄一朗 (2016年11月5日). “なぜ名古屋グランパスは降格したのか?人災が招いた悲劇/コラム”. Goal. 2021年4月7日閲覧。
  18. ^ a b 今井雄一朗 (2016年11月5日). “名古屋はなぜ降格したのか。迷走を招いた小倉体制の真実”. サッカーダイジェスト. 2021年4月7日閲覧。
  19. ^ “小倉監督休養は“手遅れ”なのか。楢﨑正剛が吐露した名古屋の現状。”. Number Web (2016年8月26日). 2021年4月7日閲覧。
  20. ^ “名古屋降格確率100%、18戦未勝利過去全て転落”. 日刊スポーツ (2016年8月28日). 2018年12月3日閲覧。
  21. ^ 小倉 隆史GM兼監督契約満了および契約解除のお知らせ
  22. ^ 小倉隆史さん、FC伊勢志摩のアドバイザーに就任 (伊勢新聞、2017年3月12日)
  23. ^ 元日本代表FW小倉隆史氏、東海社会人1部のFC.ISE-SHIMAの理事長に就任
  24. ^ 小倉理事長 監督就任のお知らせ
  25. ^ a b (プレスリリース)ジェフユナイテッド市原、2000年3月14日。 オリジナルの2001年12月3日時点におけるアーカイブ2017年10月29日閲覧 

外部リンク

  • 小倉隆史 - National-Football-Teams.com (英語) 
  • 小倉隆史 - Soccerway.com (英語) 
  • 小倉隆史 - WorldFootball.net (英語) 
  • 小倉隆史 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語) 
  • 小倉隆史 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語) 
  • 小倉隆史 - J.League Data Siteによる選手データ 
  • 小倉隆史 - J.League Data Siteによる監督データ 


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