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出自
大関氏の系図や江戸時代後期に大関増業が編纂した『創垂可継』などの家伝では、大関氏は武蔵七党の丹党の末裔であり、本姓は丹治姓であるとしている。
郷土史家の蓮実長は、戦国期に大田原氏から大関高増が養嗣子として大関氏に入ったために、大関氏の系図を作為して強いて丹治姓としたと指摘している。
それとともに、『那須系図説』や『伊王野系図』を基に大関氏は常陸国小栗氏より出た平姓と考えるのが正しいと断定した。
大関氏の記載がある市町村史や概説書は、蓮実の説を踏襲している。
概要
具体的にその動静が知られるようになるのは南北朝時代の頃からであり、主家の元で周辺勢力との抗争を繰り返しながら着々と下野国に地盤を築いていった。戦国時代の当主大関宗増は野心家で、那須氏の内紛に乗じ独立を図ったが、かえって同じく那須七党である大田原氏の大田原資清に敗れ、資清の子である大関高増を養子に迎えざるを得なくなる。大関高増の時代には大田原氏と協力しては主家である那須氏を凌ぐ勢力を築き上げ、豊臣秀吉の小田原征伐には主家の那須氏を見限りいち早く参陣し、主家が改易の憂き目を見るのをよそに所領を安堵された。
当主
- (大関高清)
- (大関光清)
- (大関清実)
- (大関氏清)
- (大関基清)
- (大関家清)
- (大関増清)
- (大関廣増)(弥七郎[2])
- (大関増信)(右衛門大夫[2]、嘉吉3年3月8日(1443年4月8日)没[2][3]、法名:巌叟道泉[3])
- (大関忠増)(弥五郎[4]、美作守[2][3]、長禄3年5月6日(1459年6月6日)没[2][3]、享年57[2][3]、法名:道忠[2]/道光[5]/大義道忠[4])
- (大関増雄)(常陸介[2][3])
- 大関宗増
- 大関増次(宗増の嫡男。)
- 大関高増(宗増の養子。実父は大田原資清。)
- 大関清増
以降は黒羽藩を参照。
系譜
大関氏 系譜
- 太字は黒羽藩主家当主。実線は実子、点線は養子/婚姻関係。*は同一人物。数字は黒羽藩主歴代。
脚注
参考文献
- 太田亮 著「国立国会図書館デジタルコレクション 大関 オホゼキ」、上田, 萬年、三上, 参次 監修 編『姓氏家系大辞典』 第1巻、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1182-1185頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。(全国書誌番号):(47004572) 。
- 荒川善夫『戦国期東国の権力構造』
- 参考史料
- 『寛政重修諸家譜』
- 『黒羽大関家譜』
- 『大関家系』
- 『寛永系図』