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堀川浪之助

堀川 浪之助(ほりかわ なみのすけ、1888年10月2日 - 没年不詳)は、日本の俳優[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名近藤 浪之助(こんどう なみのすけ)[1][3][4][5]松竹蒲田撮影所での主演俳優として、第2期の阪東妻三郎プロダクションの助演俳優として知られる[1]

ほりかわ なみのすけ
堀川 浪之助
1923年の写真。
本名 近藤 浪之助 (こんどう なみのすけ)
生年月日 (1888-10-02) 1888年10月2日
没年月日 不詳年
出生地 日本 東京府荏原郡品川町(南品川)(現在の東京都品川区南品川
職業 俳優
ジャンル 新派劇映画現代劇時代劇サイレント映画トーキー
活動期間 1909年 - 1943年
配偶者
著名な家族 1女
主な作品
『(曳かれ行く日)』
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人物・来歴

1888年明治21年)10月2日東京府荏原郡品川町(南品川)(現在の東京都品川区南品川)に生まれる[1][3][4][5]

『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社)によれば、旧制・大倉商業学校(現在の東京経済大学)を卒業、1910年(明治43年)、井上正夫の一門に加わる[1]。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』((揚幕社))によれば、初舞台は1909年(明治42年)に井上正夫一座が有楽座現在の丸の内ピカデリー[要検証])で上演した「新時代劇」である旨が記されている[2]。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』((映画世界社))および『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同)にも、数え年「22歳」のときに入門・初舞台としてあり、これは「1909年」のことであることを示している[3]。『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』によれば、1914年(大正3年)には自らの一座を結成して、四国および九州を巡業したという[2]日本映画データベース、ならびに文化庁の「日本映画情報システム」によれば、1917年(大正8年)には、小林喜三郎小林商会が製作する映画に出演しており、同年4月25日および5月5日に公開されたサイレント映画に出演している[7][8]。小林商会は同年に倒産し、小林喜三郎は1919年(大正8年)12月6日に国際活映を創立しているのだが、『日本映画俳優全集・男優編』によれば、1920年(大正9年)には、井上が国際活映に入社、それにともなって堀川も入社、翌1921年(大正10年)には、井上ともども退社したとある[1]

1922年(大正11年)、井上の門下を離れて、松竹蒲田撮影所に入社、同年8月21日に公開された『(曳かれ行く日)』(監督池田義臣)で主演に抜擢、栗島すみ子を相手に重要な役柄を演じた[1][7]。1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災によって、同撮影所は使用不能になり、京都の松竹下加茂撮影所に機能を移転、堀川もしばらく下加茂に異動した[1][7][8]。同年に発行された『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』では、荏原郡蒲田町大字北蒲田1323番地(現在の大田区蒲田5丁目)と撮影所至近に住み、身長は5尺3寸5分(約162.1センチメートル)、体重14貫200匁(約53.3キログラム)、妻子ありと記されている[2]。翌1924年(大正13年)には蒲田は復興し、堀川も復帰している[7][8]。1926年(昭和元年)12月末で同社を退社、翌1927年(昭和2年)には、京都・太秦阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画に移籍している[1][7][8]。同社の活動停止後は、阪東妻三郎プロダクションに移り、『(暗夜のパノラマ)』(監督小沢得二)等に主演したが、同プロダクションが1928年(昭和3年)には解散したので、小沢得二の(小沢映画聯盟)に参加した[1]

1931年(昭和6年)1月、阪東妻三郎が「大日本自由映画プロダクション」を設立、京成電鉄が提供した千葉県千葉郡津田沼町大字(谷津海岸)(現在の同県習志野市谷津)に「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」(のちの谷津遊園)を建設、堀川はこの設立に参加、同撮影所の第1作『(洛陽餓ゆ)』(監督(東隆史))に出演する[1]。同撮影所は、反時代的にサイレント映画を製作し続け、堀川もこれに出演を続けたが、1935年(昭和10年)1月20日に公開された『(彦左と九馬)』(監督(長尾史録)、サウンド版)を最後に、閉鎖することになり、堀川は、阪東一党ともども、配給提携先であった新興キネマに移籍する[1][7][8]

堀川の移籍先は、阪東らのように京都ではなく、同年、板橋区東大泉町(現在の練馬区東大泉2-34-5)に新設された新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)であった[1][7][8]。堀川は、同撮影所でも多くの映画に助演、1942年(昭和17年)1月10日、戦時統合により、新興キネマは日活の製作部門等と合併して大映を形成し、堀川もこれに継続入社したが、満54歳となった1943年(昭和18年)3月11日に公開された『(風雪の春)』(監督(落合吉人))以降の出演記録が見当たらない[1][7][8][9][11]。時代は第二次世界大戦も深まり、その後の消息は不明である[1]没年不詳

フィルモグラフィ

クレジットはすべて「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][12]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

小林商会

すべて製作・配給は「小林商会」、すべてサイレント映画である[7][8]

  • 』 : 監督不明、脚本(西脇静雨)、1917年4月25日公開
  • 『(上野夜話)』 : 監督不明、1917年5月5日公開

松竹蒲田撮影所

 
1925年の写真、満37歳。

特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹キネマ」、すべてサイレント映画である[7][8]

  • 地獄船』 : 監督野村芳亭、1922年4月30日公開
  • 月魄』 : 監督賀古残夢、1922年7月11日公開
  • 『(曳かれ行く日)』 : 監督池田義臣、1922年8月21日公開 - 主演
  • 『(妖女の舞)』 : 監督池田義臣、1922年10月1日公開
  • 『(悔恨)』 : 監督池田義臣、1922年10月14日公開
  • 粉河寺』 : 監督池田義臣、1922年10月21日公開
  • 『(残光)』 : 監督池田義臣、1922年11月19日公開
  • マイフレンド』第一篇『指輪』[7][8] : 監督池田義臣、1923年1月8日公開
  • 船頭小唄』 : 監督池田義臣、1923年1月8日公開 - 内藤豊三
  • 『(二つの道)』 : 監督池田義臣、1923年2月11日公開
  • 地獄の門』 : 監督大久保忠素、1923年3月1日公開
  • 『(なすな恋)』 : 監督野村芳亭、1923年4月1日公開
  • 『(噫無情 第一篇 放浪の巻)』 : 監督牛原虚彦、1923年4月1日公開[8]
  • 『(自活する女)』 : 監督島津保次郎、1923年4月16日公開
  • 『(大愚人)』 : 監督島津保次郎、1923年4月16日公開
  • 『(大東京の丑満時 第一篇 悲劇篇)』(『第一篇 悲劇の巻』[8]) : 監督池田義臣、1923年5月16日公開
  • 『(人肉の市)』 : 監督島津保次郎、1923年6月15日公開 - ハルピン御殿主人赤頭巾 露支混血児
  • 『(大東京の丑満時 第四篇 喜劇篇)』(『第四篇 終篇 喜劇の巻』[8]) : 監督島津保次郎、1923年6月15日公開
  • 剃刀』 : 監督島津保次郎、1923年7月27日公開
  • 『(親娘の旅路)』 : 監督池田義信(池田義臣)、1923年8月7日公開
  • 『(罪の扉)』 : 監督島津保次郎、1923年8月31日公開
  • 『(呪はれの日)』 : 監督池田義信、製作松竹下加茂撮影所、1923年9月30日公開
  • 『(霧の小路)』 : 監督池田義信、製作松竹下加茂撮影所、1923年10月20日公開
  • 『(夜の笑ひ)』(『夜の笑』[8]) : 監督牛原虚彦、製作松竹下加茂撮影所、1923年11月29日公開
  • 『(たそがれの夕)』 : 監督小沢得二、製作松竹下加茂撮影所、1923年製作・公開
  • 『(愛の力)』 : 監督大久保忠素、製作松竹下加茂撮影所、1924年1月23日公開
  • 黄昏の街』 : 監督小沢得二、製作松竹下加茂撮影所、1924年2月10日公開 - 主演
 
『(屋上の恋人)』(1925年)出演時、満37歳。左から堀川松井千枝子新井淳
  • 『(スヰート・ホーム)』 : 監督池田義信、1924年2月10日公開
  • 『(嘆きの港)』 : 監督島津保次郎、1924年4月23日公開
  • 『(委細面談)』 : 監督池田義信、1924年5月7日公開
  • 『(踊りの夜)』(『踊の夜』[8]) : 監督小沢得二、1924年5月31日公開
  • 悪太郎』 : 監督島津保次郎、1924年8月21日公開
  • 仙人』 : 監督島津保次郎、1924年10月1日公開 - 村の怠け者六造(主演
  • 『(嘆きの孔雀)』 : 監督池田義信、1924年11月21日公開 - 舞台監督の伯爵山上咲雄
  • 『(罪なき罪)』 : 監督五所平之助、1924年12月13日公開
  • 『(寅吉懺悔)』 : 監督(安田憲邦)、1925年1月13日公開
  • 郷土』 : 監督・主演勝見庸太郎、1925年1月22日公開
  • 『(浪の上)』(『波の上』) : 監督安田憲邦、1925年1月31日公開
  • 『(或る女の話)』 : 監督池田義信、1925年3月15日公開
  • 『(花見徳利)』 : 監督吉野二郎、1925年4月19日公開
  • 地獄谷』 : 監督吉野二郎、1925年5月31日公開
  • 女難』 : 監督(蔦見丈夫)、1925年6月12日公開
  • 『(愛の乱舞)』 : 監督吉野二郎、1925年6月20日公開
  • 郵便馬車[8][13](『郵便馬者』[7]) : 監督吉野二郎、1925年7月24日公開
  • 『(安全地帯)』 : 監督吉野二郎、1925年8月28日公開
  • 『(屋上の恋人)』 : 監督吉野二郎、1925年11月13日公開
  • 『(寂しき路)』 : 監督池田義信、1925年11月20日公開 - 長島
  • 『(猿ヶ辻の暗殺)』 : 監督大久保忠素、1925年11月20日公開 - 品川弥二郎
  • 『(忠治外伝 赤木颪)』 : 監督吉野二郎、1925年12月20日公開
  • 『(御意見御無用)』 : 監督池田義信、1925年12月31日公開 - 婿
  • 『(正ちゃんの蒲田訪問)』 : 監督蔦見丈夫、1925年12月31日公開
  • 『(国定忠治 利根川の巻)』 : 監督吉野二郎、1925年製作・公開
  • 『(紅燈の影)』 : 監督島津保次郎、1926年4月3日公開
  • 『(お坊ちゃん)』 : 監督島津保次郎、応援監督蔦見丈夫・五所平之助、1926年5月1日公開 - 今井直次(社員)
  • 『(万公)』 : 監督島津保次郎、1926年6月15日公開
  • 『(秋の歌)』 : 監督池田義信、1926年7月15日公開
  • 『(新お初地蔵)』 : 監督野村芳亭、1926年7月15日公開
  • 『(仇討同志)』(『仇討同士』[8]) : 監督吉野二郎、1926年7月24日公開 - 主演
  • 『(嘆きの薔薇)』 : 監督清水宏、1926年10月26日公開 - 綾小路男爵
  • 『(黒髪夜叉 第一・二篇)』 : 監督大久保忠素、1926年10月29日公開 - 宇津木要人
  • 『(黒髪夜叉 第三篇)』 : 監督大久保忠素、1926年12月11日公開 - 宇津木要人
  • 『(黒髪夜叉 第四篇)』 : 監督大久保忠素、1926年12月11日公開 - 宇津木要人

阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画

特筆以外すべて製作は「阪妻・立花・ユニヴァーサル聯合映画」、配給は「ユニヴァーサル映画」、すべてサイレント映画である[7][8]

  • 『(相寄る魂)』 : 監督小沢得二、1927年3月3日公開
  • 大義』 : 監督安田憲邦・(山上紀夫)、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、配給松竹キネマ、1927年3月19日公開 - 地謡
  • 『(当世新世帯)』 : 監督小沢得二、1927年4月22日公開 - 主演
  • 『(新版走馬燈)』 : 監督小沢得二、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、1927年製作・公開 - 主演
  • 『(待ち人来る)』 : 監督小沢得二、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、1927年製作・公開 - 主演
  • 『(暗夜のパノラマ)』 : 監督小沢得二、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、配給松竹キネマ、1928年1月15日公開 - 主演
  • 『(風流の侠児)』(『風浪の侠児』[8]) : 監督安田憲邦、製作阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所、配給松竹キネマ、1928年4月7日公開
  • あゝ玉杯に花うけて』 : 監督小沢得二、製作・配給(東京シネマ商会)、1929年4月10日公開 - 覚平、90分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 『(奥様ごらん 亭主受難の巻)』 : 監督不明、製作・配給(中村教育映画社)、1930年前後[14] - 大下緑郎、11分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 故郷の空』 : 監督山根幹人、製作・配給(日本教育映画研究所)、1930年前後 - 飯野良作[15]、12分尺で現存(マツダ映画社所蔵[12]

阪東妻三郎プロダクション関東撮影所

特筆以外すべて製作は「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」(谷津撮影所)、特筆以外すべて配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[7][8]

  • 『(洛陽餓ゆ)』 : 監督(東隆史)、配給パラマウント映画、1931年7月15日公開 - 近江屋民十郎
  • 『(風雲長門城)』 : 監督東隆史、1931年9月15日公開 - 栗島帯刀
  • 『(雪の渡り鳥)』 : 監督(宮田十三一)、1931年10月15日公開 - 帆立の丑松、『鯉名の銀平 雪の渡り鳥』題で61分尺で現存(マツダ映画社所蔵[12]) / 玩具フィルム約1分45秒尺が現存(大阪芸術大学所蔵[16]
  • 『(牢獄の花嫁 前篇)』 : 監督(沖博文)、1931年12月1日公開 - 亀山城家老大村郷右衛門
  • 『(牢獄の花嫁 解決篇)』 : 監督沖博文、1931年12月19日公開 - 亀山城家老大村郷右衛門
  • 月形半平太』 : 監督岡山俊太郎(阪東妻三郎)、1931年12月31日公開 - 仏師宗兵衛
  • 片腕仁義』 : 監督沖博文、1932年5月15日公開 - 黒駒の勝蔵
  • 情熱地獄』 : 監督東隆史、1932年11月1日公開 - 前田利家
  • 『(変幻七分賽 前篇)』 : 監督古海卓二、1932年12月1日公開 - 彦根の親分くりからの弥太郎
  • 『(変幻七分賽 後篇)』 : 監督古海卓二、1932年12月15日公開 - 彦根の親分くりからの弥太郎
  • 『(英五郎二人)』 : 監督沖博文、製作阪東妻三郎プロダクション・新興キネマ、1932年製作・未公開(火災によるネガ焼失) - 久宮村の丈八
  • 『(新門辰五郎 大江戸闇の炎)』 : 監督東隆史、1933年2月17日公開 - 益満休之助
  • 『(江戸城心中 前篇)』 : 監督東隆史、1933年4月1日公開 - 密貿易の巨頭先生金右衛門
  • 『(江戸城心中 後篇)』 : 監督東隆史、1933年4月13日公開 - 密貿易の巨頭先生金右衛門
  • 『(燃える富士 東海散華の巻)』(『燃える富士 前篇 東海蔽華開巻』[8]) : 監督東隆史、1933年6月1日公開 - 池田播磨守[8][17]
  • 『(剣士桂小五郎)』 : 監督(宇沢義之)・沖博文、1933年7月13日公開 - 大久保市蔵
  • 『(埋蔵金三万両)』 : 監督古海卓二、1933年8月15日公開 - 高崎藩の伊丹喜兵衛
  • 『(燃える富士 王道戦花の巻)』 : 監督宇沢義之、1933年9月14日公開 - 池田播磨守[17]
  • 『(新釈清水一角 浪人祭)』 : 監督東隆史、1933年10月15日公開 - 千坂兵部
  • 『(燃える富士 修羅暁闇の巻)』 : 監督宇沢義之、1933年11月1日公開 - 池田播磨守[17]
  • 『(鉄血団快挙録 暁の日本)』(『暁の日本 鉄血団快挙録』『鉄血隊快挙録 暁の日本』[8]) : 監督東隆史、1933年12月14日公開 - 勝安房守
  • 『(快侠 河内山宗俊 豪胆篇)』 : 監督岡山俊太郎(阪東妻三郎)、1933年12月31日公開 - 森田屋清蔵
  • 『(文政剣花陣 野狐三次)』 : 監督東隆史、1934年1月14日公開 - に組の親分秀五郎
  • 『(天狗の安)』 : 監督(山口哲平)、1934年3月1日公開 - 陣屋の三之助
  • 青年』 : 監督(長尾史録)、1934年3月29日公開 - エルネスト・サトー
  • 『(雲霞閻魔帳 前篇 春秋緑林篇)』 : 監督山口哲平、1934年5月3日公開 - 夜叉権
  • 『(雲霞閻魔帳 後篇 流星)』 : 監督(晩孔秀)、1934年6月14日公開 - 夜叉権
  • 『(血吹雪伊勢音頭)』 : 監督長尾史録、1934年7月12日公開 - 金兵衛
  • 『(江戸の兵児組 女禁制)』 : 監督山口哲平、1934年8月30日公開 - 家老調所笑左衛門
  • 『(野火の兄弟)』 : 監督長尾史録、1934年10月4日公開 - 稲富内記
  • 『(人斬り猪之松)』 : 監督山口哲平、1934年10月17日公開 - 白魚佐太郎
  • 『(阿弥蛇時雨)』 : 監督長尾史録、1934年11月23日公開 - 奉行神尾備前守
  • 『(剣聖千葉周作)』 : 監督山口哲平、1934年12月9日公開 - 伊井家用人
  • 勤王党』 : 監督長尾史録、サウンド版、1934年12月31日公開 - 柳沢弥平太
  • 『(彦左と九馬)』 : 監督長尾史録、サウンド版、1935年1月20日公開 - 伴林六太郎

新興キネマ東京撮影所

特筆以外すべて製作は「新興キネマ東京撮影所」、特筆以外すべて配給は「新興キネマ」、特筆以外すべてトーキーである[7][8]

  • 『(女人祭)』 : 監督田中重雄、サウンド版、1935年9月19日公開 - 久美子の父亮造
  • 『(一本刀土俵入)』 : 監督重宗務、製作東京発声映画製作所、1936年6月4日公開 - 掘下の根吉[17]
  • 『(街の笑くぼ)』 : 監督重宗務、製作東京発声映画製作所、配給日活、1936年7月31日公開 - てきやのネタ売りごろ松[10]
  • 『(大番頭小番頭)』 : 監督豊田四郎、製作東京発声映画製作所、配給日活、1936年7月31日公開 - 正二郎の父[10]
  • 『(若旦那三国一)』 : 監督重宗務、製作東京発声映画製作所、配給東宝映画、1937年6月20日公開
  • 『(冬の宿)』 : 監督豊田四郎、製作東京発声映画製作所、配給東宝映画、1938年10月5日公開 - 役名不明、87分尺で現存(NFC所蔵[18]
  • 』 : 監督豊田四郎、製作東京発声映画製作所、配給東宝映画、1938年11月9日公開 - 司法主任[11][17]、71分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 『(人生双六より あわてた友情)』(『あわてた友情』[8]) : 監督(沼波功雄)、1939年4月25日公開 - 材木商鈴木久三郎
  • 『(侠艶録)』 : 監督田中重雄、1939年5月1日公開 - ぼたんの父三次
  • 『(海棠の歌)』 : 監督(深田修造)、1939年6月15日公開 - 綾子の養父酒井釜吉
  • 『(泣き笑ひの天国)』 : 監督(須山真砂樹)、1939年6月22日公開 - 踏切番山田
  • 『(歌う乗合馬車)』(『歌ふ乗合馬車』[8]) : 監督沼波功雄、1939年7月25日公開 - 島本六助
  • 『(あきれた百万円)』 : 監督沼波功雄、1939年8月31日公開 - 由兵衛の腹心の支配人前田
  • 『(暁の門出)』 : 監督(伊奈精一)、1939年10月6日公開 - 六兵衛、56分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 子宝』 : 監督沼波功雄、1939年11月23日公開 - 番頭半三
  • 『(女剣戟三人娘)』 : 監督(青山三郎)、1939年12月7日公開 - 平山金蔵
  • 『(若妻の夢)』 : 監督沼波功雄、1939年12月30日公開 - 近東商事の大川専務
  • 『(素晴らしき喧嘩)』 : 監督沼波功雄、1940年2月28日公開 - 番頭安五郎
  • 『(娘たずねて三千里)』 : 監督沼波功雄、1940年5月23日公開 - ボスの治平
  • 『(花嫁の喧嘩)』 : 監督沼波功雄、1940年7月7日公開 - 泰三の叔父作三
  • 『(光に立つ)』 : 監督曾根千晴、1940年7月31日公開 - 隆の父平吉
  • 『(漫才タクシー)』 : 監督(萩野頼三)、1940年8月29日公開 - カホル・タクシーの主人森田
  • 『(玩具工場)』 : 監督沼波功雄、1940年9月28日公開 - 職人本田
  • 『(夢みる娘)』 : 監督沼波功雄、1940年10月15日公開 - 孝子の養父で綿商の正木市造、34分尺で現存(NFC所蔵[18]
  • 『(笑ふ父)』 : 監督沼波功雄、1940年12月15日公開 - 田所商店支配人浅田
  • 初春娘』 : 監督沼波功雄、1940年12月29日公開 - 中川
  • 『(新生の歌)』 : 監督沼波功雄、1941年2月28日公開 - 源助爺、64分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 『(鉄の花嫁)』 : 監督田中重雄、1941年4月10日公開 - 大杉
  • 『(鮒と将軍)』 : 監督沼波功雄、製作新興キネマ京都撮影所、1941年4月24日公開 - 材木屋の隠居原田由兵衛
  • 『(素晴らしき結婚)』 : 監督沼波功雄、1941年6月22日公開 - 河野清
  • 『(旋風街)』 : 監督久松静児、1941年7月8日公開 - 横井剛
  • 『(飛び込んだ幸福)』 : 監督沼波功雄、1941年7月15日公開 - 村長
  • 『(あの山越えて)』 : 監督曾根千晴、1941年7月31日公開 - 大久保
  • 『(太陽先生)』 : 監督深田修造、1941年11月13日公開 - 直木老人
  • 『(逞しき愛情)』 : 監督沼波功雄、1942年3月1日公開 - 小使
  • 『(母よ嘆く勿れ)』 : 監督深田修造、配給映画配給社、1942年4月16日公開 - 床屋の客、19分尺で現存(NFC所蔵[11]
  • 『(風雪の春)』 : 監督(落合吉人)、製作(大映東京第一撮影所)、配給映画配給社、1943年3月11日公開[9] - 茂吉、100分尺で現存(NFC所蔵[11]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o キネマ旬報社[1979], p.524.
  2. ^ a b c d 揚幕社[1923], p.10-11.
  3. ^ a b c d 映画世界社[1928], p.20.
  4. ^ a b c 映画世界社[1930], p.24.
  5. ^ a b c 映画世界社[1934], p.39.
  6. ^ 堀川浪之助jlogos.com, (エア)、2013年3月6日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 堀川浪之助日本映画データベース、2013年3月6日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 堀川浪之助、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月6日閲覧。
  9. ^ a b c 堀川浪之助日本映画製作者連盟、2013年3月6日閲覧。
  10. ^ a b c 堀川浪之助日活データベース、2013年3月6日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j k 堀川浪之助東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月6日閲覧。
  12. ^ a b c 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇、マツダ映画社、2013年3月6日閲覧。
  13. ^ 芝居とキネマ 2(8)、国立国会図書館、2013年3月6日閲覧。
  14. ^ 新田[2003], p.73.
  15. ^ 故郷の空、マツダ映画社、2013年3月6日閲覧。
  16. ^ 雪の渡り鳥、大阪芸術大学、2013年3月6日閲覧。
  17. ^ a b c d e 堀切浪之助、日本映画データベース、2013年3月6日閲覧。
  18. ^ a b 発掘された映画たち2003、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月6日閲覧。

参考文献

  • 『現代俳優名鑑 東京 映畫俳優篇』、(揚幕社)、1923年
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』、(映画世界社)、1928年
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』、映画世界社、!930年
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年
  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『図説 東京流行生活』、(新田太郎)、河出書房新社、2003年9月13日 (ISBN 4309760368)

関連項目

外部リンク

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