この記事は(検証可能)な(参考文献や出典)が全く示されていないか、不十分です。(2021年3月) |
概要
実家の倒産を救うため、20歳で渡米結婚した女性を中心に、アメリカの大地に生き抜いた日本移民たちの姿を描く。新藤兼人が実姉をモデルに書き下した『祭りの声』をもとに、自身が脚本化、監督した。撮影も同作の(丸山恵司)がそれぞれ担当。
現在に至るまで、DVDなどのソフト化は一切行われていない。作品そのものの版権と原盤のありかが不明確で、そのためソフト化はもちろん上映も困難だという[1]。
長らく、原盤のありかが不明確であると表現されておりますが、(版権の問題はさておき、)そのフィルムの一本は、映画図書館(国立映画アーカイブ)に保管(収蔵)されていることが判ります。デジタルコピーを行った上で、再び公開される日が来るのかどうかは、不明[2]。
ストーリー
1920年夏、藤木秀代は写真結婚でアメリカにやって来た。家の倒産を救うため彼女は多額の結納金を請求したが、それは夫になる良夫が10年間汗水流して貯めたものだった。それから、荒野の壮絶な生活がはじまった。灼熱の太陽の照る中、水を天びんで運び、石ころだらけの土地を耕す。秀代はホームシックでヒステリーを起こしたが、良夫の怒声がかえってきた。そうして、荒地も野菜畑に変わっていった。24年の歳月がたち、秀代は、太郎、サクラ、モモコ、アヤメと4人の母になっていた。1941年12月8日、日本の真珠湾攻撃で太平洋岸の日系移民12万は大統領令9066号により強制収容所送りとなる。藤木家はアリゾナ州ゴードン収容所に入れられ、土地も財産もただ同然で投げ棄てた。アメリカへの忠誠か、日本人たるべきかと重大な岐路に立たされた日系人は、一世と二世との間に骨肉の争いが起きる。ある日、スパイとして密告され拉致されたサトウを取り戻そうと暴動が起き、太郎が危険人物として捕えられた。収容所内では“忠誠登録”が優勢となり、若者たちはアメリカ軍隊へ志願して行った。許されて戻った太郎も志願して出征した。原爆が広島に落とされ戦争は終わった。1945年、収容所生活4年目、藤木一家はもとの土地へ戻ってきたが、一からやり直しである。メキシコ国境に近いオータイバレーで土地が手に入ると知った彼らは、他の日系人と共に移り住み、荒地を耕した。終戦2年目、太郎が帰還する日、サクラもカリフォルニア大学から戻って来た。その間、良夫は山で事故にあい不慮の死を遂げていた。サクラは白人のボーイフレンドと一緒に暮らしており結婚するという。百姓の日本人を嫌う娘に秀代は失望するが、太郎が彼女を慰め畑を手伝い始めた。モモコも、また白人を好きになり出て行く。秀代は太郎に日本人の嫁をもらえと、日本へ送り出す。そして、太郎から秀代の育った広島で花嫁が見つかりそうだと、便りが届いた。
スタッフ
キャスト
脚注
参考文献
- 『新藤兼人の足跡』 著作集全6巻、岩波書店