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品川司

品川 司(しながわ つかさ、戸籍名:藤戸 光秀、旧名:韓 光秀1910年〈明治43年〉11月15日 - 1992年〈平成4年〉12月3日)とは、朝鮮忠清南道燕岐郡出身の政治運動家平和運動家頭山満門下[1]右翼である。

しながわ つかさ
品川 司
生誕韓 光秀(한광수 / ハン クァンス)
1910年11月15日
日本統治下朝鮮忠清南道燕岐郡
死没 (1992-12-03) 1992年12月3日(82歳没)
国籍 日本
別名藤戸 光秀(ふじと みつひで)※戸籍名
出身校専修大学経済専科
職業新聞社社主・政治活動家

私財をつぎこんで授産所や診療所の運営を行っていた[2]

原水協に先んじて、原水爆実験禁止運動を手がけて、100万人の署名運動を起こした[3]

肩書き

(世論新聞社)社主、(平和公論社)社主、財団法人(平和厚生会)理事長、国民民主党総裁、日本民主党総裁。

経歴

前半生

自称していた略歴は下記の通り[1][4]

本籍東京都広島県出身。1938年(誠進會)設立、1940年専修大学経済専科卒[2]1945年(国弘通信社)社主、誠進會を(政経社)に改組。1948年(世論新聞社)社長就任、政経社を社団法人(政経厚生会)に改組。1953年6月政経厚生会を(平和厚生会)に改組。

1942年 「大森ホテル」の支配人を務めていた際、内紛から元経営者の親族2名を殺害[5]、懲役12年が確定し服役。

1950年頃、藤戸某と養子縁組して日本に転籍

1952年頃に出所。被選挙権獲得直後より、東京を選挙区とする国政選挙を主に立候補し続ける。

1952年、東条英機らが戦犯として死刑になったときは、数寄屋橋に人を集めて平和祈願の慰霊法要を営んだ[3]

後半生

1955年第27回衆議院議員総選挙後の3月5日、有権者を戸別訪問した疑いで、公職選挙法違反で逮捕された[6]。衆院選に立候補したことに絡んで殺人前科等について報じた読売新聞を名誉棄損で提訴したが敗訴した(署名狂やら殺人前科事件)。

1956年第4回参議院議員通常選挙の選挙戦では港区中央区千代田区品川区を中心に関係諸団体の支持を背景に健闘した[7]

1968年第8回参議院議員通常選挙では、今村均元陸軍大将、松隈秀雄元専売公社総裁、大浜信泉前早稲田大学総長、嘉納履正講道館館長、川合寿人元警視総監、コロムビア・トップコロムビア・ライトなどの推薦を受けた[8]

1979年第35回衆議院議員総選挙では、宝井馬琴、将棋の升田幸三、嘉納、藤井松太郎日本国有鉄道総裁、松隈、コロムビア・ライト、前田幸蔵日本税理士会連合会会長、森口忠造専修大学理事長の推薦を受けた[9]

1983年第13回参議院議員通常選挙では、赤城宗徳元農林大臣、大槻文平日経連会長、嘉納、灘尾弘吉元衆議院議長、松隈などの推薦を受けた[10]

いわゆる「泡沫候補」を意図的に排除するマスコミの報道は公職選挙法放送法に違反している、としてNHKなどを相手取り民事裁判を起こしたが、1989年最高裁判所に於いて品川の訴えはすべて棄却された[11]1992年参院選が最後の立候補となった。主宰していた世論新聞が1000号を突破した際には、福田赳夫瀬戸山三男が祝辞を寄せている[12]

1992年12月3日死去、82歳没。生前の品川の遺志により、訃報は翌年発行の世論新聞まで発表されなかった[13]。品川の死没から丁度10年後の2002年12月3日、世論新聞社は解散に至った[14]。平和厚生会も2013年12月1日に解散している[15]

選挙運動

  • 品川司の公報は血と汗の綴りでございます故是非お目通し賜りますようお願い申し上げます」「今度こそは品川司の出番です」の紋切型で始まる選挙公報には、政財界の錚々たる推薦者が名を連ね、紳士然とした態度で切々と訴えかける政見放送の印象と相俟って、赤尾敏、(大木明雄)と並び称される知名度があり、終ぞ当選の栄誉に浴することは無かったものの、時折上位で健闘する場合があった。
  • 選挙では『社団法人(東京都個人タクシー協会)有志』の推薦や支持を受けていた時期もあり、僅かながら同協会関係者による組織票も有していた[1]
  • 選挙運動は(トヨペット・クラウン)(後に(トヨタ・マークIIワゴン))を選挙カーに仕立て、ウグイス嬢を従えて街頭を回るという比較的オーソドックスなものであった。選挙運動には個人タクシー運転手有志が参加した他、コロムビア・トップ・ライトらが応援に立った[1]
  • 赤坂迎賓館正門に隣接する敷地に『平和厚生会・北方領土恢復運動センター』の看板を掲げた掘っ建て小屋を構えていた[1]
  • 選挙とは無関係に、銀座新宿など繁華街で時折辻立ちを行っていた[1]
  • 選挙公報に「自民党所属」と記している事例がある(1960年第29回衆議院議員総選挙等)が、それらの選挙にも実際は無所属で立候補を届け出ており、自由民主党の公認や推薦を得たことは一度もない。

立候補歴

政治団体

国民民主党 (日本 1979)

品川が1979年第35回衆議院議員総選挙(東京2区)に立候補する際に設立、自らの推薦団体とした政治団体1980年第12回参議院議員通常選挙(東京都選出)、1983年第37回衆議院議員総選挙(東京2区)でも使用したが、同年先に施行された第13回参議院議員通常選挙(東京都選出)には無所属で立ち、その後1986年第14回参議院議員通常選挙(東京都選出)からは「日本民主党」を名乗るようになった。

日本民主党 (1986)

品川が1986年第14回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)に出馬する際に、それ迄の「国民民主党」に代わって設立、自らの推薦団体とした政治団体。1953年第26回衆議院議員総選挙に際し、既に結党されていたとする資料もある[1]

品川は「福祉国家と世界平和の確立」、「国民精神の道徳による武装」をスローガンに、首相公選、参議院比例代表制廃止、北方領土恢復などを選挙公約に立候補したが落選。 翌1987年東京都知事選挙1989年第15回参議院議員通常選挙(東京都選挙区)、1990年第39回衆議院議員総選挙(東京2区)、1992年第16回参議院議員通常選挙(東京都選出)にも「日本民主党」名義で出馬したが、いずれも惜敗した。

脚注

  1. ^ a b c d e f g 『憂国・炎の人 品川 司 -その激動の半生-』
  2. ^ a b [戦いのひととき]=7 1区 品川司 車借り、運転手役も(連載)読売新聞 1958年5月15日 朝刊6ページ
  3. ^ a b [30万票を追う人たち]=9 品川司▽野々上武敏(連載)読売新聞 1959年5月21日朝刊10ページ
  4. ^ 各選挙公報より要約
  5. ^ 山田隆司 (2009). 名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防. 岩波書店. ISBN (978-4-00-431186-7) 
  6. ^ 品川落選候補(1区)を逮捕 読売新聞 1955年3月6日朝刊7ページ
  7. ^ [参院選展望・終盤戦を迎えて]=下 せり合う革新4候補 読売新聞 1956年6月29日朝刊6ページ
  8. ^ [広告] 東京地方区/品川司 読売新聞 1968年7月6日朝刊12ページ
  9. ^ [広告] 国民民主党 読売新聞 1979年9月28日朝刊17ページ
  10. ^ [広告] 日本民主党 品川司 東京第2区 読売新聞 1983年12月17日朝刊6ページ
  11. ^ 毎日新聞東京本社1989年9月14日夕刊18面
  12. ^ 世論新聞1992年11月21日(1011号)1面
  13. ^ 世論新聞1993年2月1日(1014号)2面
  14. ^ 株式会社世論新聞社(会社法人等番号: 0100-01-020796)閉鎖事項証明書(2015年1月21日登記記録閉鎖)
  15. ^ 社団法人平和厚生会(会社法人等番号: 0133-05-000055)閉鎖事項証明書(2014年5月7日登記記録閉鎖)

参考文献

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