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南町通り (仙台市)

南町通(みなみまちどおり)は、仙台市都心部を東西に通じる道であり、JR仙台駅西口における主要幹線道の1つ。南町通りとも表記する。全線が仙台市青葉区内にある。片側2車線街路樹トウカエデ[1]

本文中の「市民の認識における南町通り」の範囲
JR仙台駅屋上駐車場から撮影した南町通(2009年7月)。(仙台駅西口バスプール)入口(写真下端)で北(写真右)方向に屈曲し、仙台駅前交差点に至る。
JR仙台駅西口ペデストリアンデッキから撮影した南町通(2022年9月)
仙台市道青葉1163号・片平五橋通線(五ツ橋通)上にある青葉区一番町二丁目歩道橋から南東方向の写真(2005年7月)。

かつて地元では「みなんまちどおり」とも発音していた((参照))。1932年(昭和7年)から1945年(昭和20年)までは改名して多門通(たもんどおり)といった。占領期には、進駐軍が「メイプル・ストリート」と呼んだ((参照))。

定義

現在の南町通には、いくつかの定義がある。仙台駅前では、仙台市道青葉1165号・南町通1号線における仙台駅前交差点からバスプール前交差点までの区間のどこに東端を置くかに違いがある。南町通と見なされなかった仙台市道青葉1165号・南町通1号線の区間は駅前通と見なされる。

仙台市の歴史的町名等活用推進事業の地図における南町通
  • 西端:南町
  • 東端:仙台駅前交差点
仙台市の歴史的町名等活用推進事業で南町通は一覧に記載されなかったが、地図にはその範囲が明記されている。この場合、奥州街道の一部である南町を西端、仙台駅前交差点を東端とする。南町は現在の国分町通(仙台市道青葉1158号・国分町通線)の一部。仙台駅前交差点は、JR仙台駅西口駅前広場ロータリー降車場の前にある交差点であり、青葉通および駅前通と連結する。このため、南町通は東端付近の(仙台駅西口バスプール)入口を境に北向きに屈曲する。
仙台市道における南町通
  • 仙台市道青葉1165号・南町通1号線
    • 西端:(本荒町)
    • 東端:仙台駅前交差点
仙台市道の南町通には、JR仙台駅をはさんで西側にある「仙台市道青葉1165号・南町通1号線」および同駅の東側にある「仙台市道宮城野1451号・南町通線」がある。仙台駅が東六番丁に建設されたため南町通は東西に分断されたが、西側がメインストリートとなって市民の認知度が高いのに対し、東側は道路延長が短い上に宮城木道宮城電気鉄道(仙石線)の駅が設置されたり、仙石線の引き込み線が設置されたり、仙台駅東第二土地区画整理事業の対象地域内に入ったりしてかつての道筋を残していないため、市民に南町通の一部だとは知られていない。「南町通1号線」は、西端が南町の1西の仙台市道青葉1235号・本荒町線になり、仙台市電開通前の南町通および加川横丁の区間と言える。「南町通線」は、現・BiVi仙台駅東口の北側の歩車両用道および東側の歩行者専用道路初恋通りの一部)を合わせた鍵形の道である。
市民の認識における南町通
  • 西端:五ツ橋通
  • 東端:(バスプール)前交差点
本荒町の1町西で接続する五ツ橋通を西端とし、愛宕上杉通との接続部であるバスプール前交差点を東端とする[2]。五ツ橋通を越えて直進し仙台高等裁判所正門前までの道(仙台市道青葉1236号・一番町一丁目1号線)を付加する見方もある。
仙台市道路愛称名による南町通
  • 西端:(藤ヶ崎)
  • 東端:(仙台駅西口バスプール)入口
この場合、「市民に認識における南町通」の西端に仙台市道青葉1163号・片平五橋通線(五ツ橋通)を付加して藤ヶ崎(旧仙台家庭裁判所、現在はライオンズタワー仙台大手町の前)を西端とし、「市民に認識における南町通」の東端から東進して仙台駅西口バスプール入口を東端とする。

歴史

現在の南町通が、江戸時代の(仙台城下町)においてどのような名称であったかは不明。ただし、現在の南町通と同じ道筋が17世紀からあったことは古地図から分かっており、道幅は1(1.8m)ほどの細い道であった。推定1664年寛文4年)の『城下絵図』および推定1669年(寛文9)の『仙台城下絵図』では、東一番丁から(東七番丁)までの区間で確認出来る[3]。東一番丁より西には、やや(筋違い)に南側から南町を通り過ぎて(本荒町)まで道が見られる[3](南町は芭蕉の辻から奥州街道沿いに南に延びる町で、現在の国分町通の一部にあたる)。推定1678年延宝6年)- 1680年(延宝8年)の『仙台城下絵図』では、東端が(東十番丁)まで延長されているのが分かり、その先は寺社地を縫って榴岡天満宮門前に至る道が見受けられる[3]1833年天保4年)の『御城下町割絵図』でも延宝年間の『仙台城下絵図』と同様な道筋が見られるが、東二番丁から東七番丁までの区間では四ツ谷用水が流れていた様子が描かれ、また、南町を横切るやや筋違いの道は南町~東一番丁の区間のみが描かれている[3]。東一番丁~榴岡天満宮門前の道筋は、現在においては、JR仙台駅の西側では南町通だが、仙台駅の東側では宮城野通の1本北の細道(該当する仙台市道は、宮城野1400号・榴岡二丁目2号線、宮城野1403号・榴岡三丁目2号線、宮城野1407号・榴岡三丁目6号線、宮城野1424号・榴岡五丁目6号線など)として残る。なお、江戸時代の躑躅岡(現表記は榴ヶ岡。榴岡天満宮および榴岡公園辺りを指し、(宮城野撓曲)と呼ばれる撓曲丘陵)は、城下町東郊にあって遊興の地とされていた場所である。

1887年(明治20年)、東六番丁との交差部付近に日本鉄道・仙台駅が設置された。これを機に、道幅が9間(約16.2m)に広げられ、東一番丁までだった西端が1町西の南町まで延長された(このとき、やや筋違いだった南町~東一番丁間の細道は当道の一部になったと見られる)。江戸時代の仙台城下町では、「~通」と命名された道は「~に繋がる道」という意味だったから[4]、仙台駅前から仙台区の中心地の1つである南町に繋がる道として「南町通」と命名された(仙台市の歴史的町名等活用推進事業で採用された南町通の定義)。なお、南町より西側のやや筋違いの道は、加川横丁(あるいは香川横丁)として残った(この当時の南町通と加川横丁を合わせたものが仙台市道の定義)。

1891年(明治24年)に大内屋の8代目である大内源太右衛門が街路樹を植えた[5]。仙台における街路樹の始まりである[6]1926年(大正15年)には仙台市電が開通し、この通りを1976年(昭和51年)まで通ることになった。市電開通に際して、道幅は12間(約21.8m)に広げられた。このとき、南町より西の加川横丁も同じ幅に広げられ、南町通に組み込まれ[7]、さらに西側に道を新設して片平丁(当時。現在は五ツ橋通)に接続した(市民の認識における南町通の定義)。以上のような仙台駅設置と市電開通により、南町通は、20世紀前半の仙台で中心的な街路の1つであった。

仙台に置かれた陸軍の第二師団は、満州に移駐するために1931年(昭和6年)4月仙台駅から出征した。駐屯地から各部隊が通った道はまちまちであったが、多門二郎師団長以下の師団本部は大町から芭蕉の辻で曲がって南町通を通った。その年のうちに満州事変が起こり、第二師団も戦った。師団が満州から引きあげるに際し、仙台市はその帰還を「凱旋」として歓迎する計画を立てた。発表された通路は名掛丁から大町を経て大橋を通る道と、南町通である。1932年(昭和7年)に東北帝国大学(現在の東北大学)の5人の博士が師団長の功績を記念して多門通または多門町を仙台に設けることを市長に提案し、それを知った南町通の住民が改名を希望した。仙台市会がこれを認めて1月7日に改名を承認し、8日の師団凱旋を迎えた。当時東北帝国大学の講師をしていた歴史学者喜田貞吉は、個人の名を冠することに反対し、多門の自宅に談じ込んだ。話を聞いた多門はその通りと同意したが、それで市会の決定が覆ることはなかった[8]

1945年(昭和20年)に仙台に進駐したアメリカ軍は、南町通を「メイプル・ストリート」と呼んだが、市民は用いなかった。戦後、南町通の名が復活した。戦後の復興計画で、青葉通広瀬通定禅寺通が新たな主要道として整備された際、青葉通が最大幅50mで新設された一方で、南町通の拡幅は26mにとどまった。戦後も南町通は商業地として賑わうが、どちらかといえば官庁やオフィス中心であり、中心街路の地位は前記3つの通りに譲った。多門通が消えた後も、市道の正式名称は長く「市道多門通元常盤丁線」といったが、仙台市の政令指定都市移行を機に、1989年平成元年)3月22日に南町通1号線と改めた[9]

以上のように当道は、西端が延長されてきた歴史と、東端が青葉通の新設、東北新幹線開通に伴う仙台駅の拡張、仙台駅西口バスプールの設置などにより曖昧化し、様々な定義がなされるようになってしまった。

沿道の施設など

かつて存在した施設

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ キッズ 百年の杜(街路樹マップなど)
  2. ^ 『忘れかけの街・仙台 昭和40年頃、そして今』(河北新報出版センター 2005年 (ISBN 4-87341-189-0))の54頁-55頁には、この定義で南町通が紹介されている。
  3. ^ a b c d 古絵地図(宮城県図書館
  4. ^ (仙台市都心部#「丁」と「町」)を参照。
  5. ^ 『あきんどの町 おおまちに至るまでの400年』133頁。大内屋は1676年創業の呉服屋、後に服飾店として営業していたが2016年に廃業した。大内源太右衛門は仙台鹿の子の増補版を著している。
  6. ^ 2008年刊『仙台市史』通史編6(近代1)413頁。
  7. ^ 畑井洋樹「『多門通』の誕生について」159頁。
  8. ^ 畑井洋樹「『多門通』の誕生について」162-169頁。
  9. ^ 畑井洋樹「『多門通』の誕生について」169頁。

参考文献

  • 「あきんどの町」編集委員会『あきんどの町 おおまちに至るまでの400年』、おおまち商店街振興組合、1984年。
  • 仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編6(近代1)、仙台市、2008年。
  • 畑井洋樹「『多門通』の誕生について 当時の新聞記事を中心に」、『足元からみる民俗』16、仙台市教育委員会・仙台市歴史民俗資料館・調査報告書第26集、2008年。
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