勘解由小路家(かでのこうじけ)は、藤原北家日野流烏丸家の分家にあたる公家、華族[2]。公家としての家格は名家、華族としての家格は子爵家[3]。
歴史
正保元年(1644年)、烏丸光広の次男の資忠によって創立された。(家格)は名家。儒道を家学とし、家禄は130石[1]。
(雲上明鑑)に、「始祖は烏丸権中納言豊光六代正二位権大納言光広の末男正三位参議資忠なり」とある。門流は近衛殿。
明治維新後の明治2年(1869年)に旧公家として華族に列し、明治14年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると同8日に大納言直任の例がない旧堂上家として資生が子爵に列せられた[3]。
2代子爵資承は宮内省に出仕して東宮侍従などを歴任した後、貴族院の子爵議員に当選して務めた[4]。
3代子爵資淳は外祖父の資承の養子に入る際に一度親族にあたる武者小路実篤の養子になってから勘解由小路家に入っている[4]。
資淳の代の昭和前期に勘解由小路子爵家の邸宅は東京市淀橋区西大久保にあった[5]。
現在は山口県に在住している。
歴代当主
- 初代:勘解由小路資忠(すけただ、1632年 - 1679年)- 正三位参議
- 1663年 - 1729年)- 正二位権大納言 2代:(勘解由小路韶光)(あきみつ、
- 1698年 - 1732年)- 従三位非参議 ?式部権大輔 3代:(勘解由小路光潔)(みつきよ、
- 1721年 - 1739年)- 従五位上侍従 (公卿に昇らず) 4代:(勘解由小路音資)(なりすけ、
- 1735年 - 1759年)- 従四位上左中弁(公卿に昇らず) 5代:(勘解由小路資望)(すけもち、
- 1754年 - 1782年)- 従四位上左京権大夫(公卿に昇らず) 6代:(勘解由小路近光)(ちかみつ、
- 1778年 - 1848年)- 正二位権大納言 7代:(勘解由小路資善)(すけよし、
- 勘解由小路光宙(みつおき、1808年 - 1862年)- 正三位非参議 中務権大輔 8代:
- 勘解由小路資生(すけより、1826年 - 1893年)- 正三位、子爵、貴族院議員 9代:
- 10代:勘解由小路資承(すけつぐ、1860年 - 1925年)- 子爵 貴族院議員
- 11代:勘解由小路資淳(すけあつ、1922年 - )- 元・子爵、元・海軍中尉、当代
系図
幕末の領地
国立歴史民俗博物館の『旧高旧領取調帳データベース』より算出した幕末期の勘解由小路家(藤原北家)領は以下の通り。(2村・130石)
脚注
注釈
出典
参考文献
- 太田亮「勘解由小路 カゲユノコウヂ カデノコウヂ」『姓氏家系大辞典』 第1、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1434-1435頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。(全国書誌番号):(47004572) 。
- Kugyoruibetsufu. “名家〔勘解由小路・北小路〕”. 公卿類別譜(公家の歴史). 2019年11月16日閲覧。
- “”. 日本の苗字7000傑 姓氏類別大観. 2017年4月16日閲覧。
- ネケト. “勘解由小路家(名家)”. Reichsarchiv 〜世界帝王事典〜. 2019年11月16日閲覧。
- 但馬荒人. “戦国時代の陰陽師:賀茂在昌”. 2019年5月24日閲覧。[信頼性要検証]
- 『幸徳井世系考訂本』明治期・筆記史料。(東京国立博物館 研究情報アーカイブズ) 。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN (978-4121018366)。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN (978-4820540342)。