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東側諸国

東側諸国(ひがしがわしょこく、東側社会主義陣営共産主義陣営ともいう、英語: Eastern Bloc、イースタンブロック)は、冷戦の間、東欧東アジア東南アジアなどの社会主義国ソ連中国東ドイツベトナムラオスシリア北朝鮮ルーマニアなど)を指して使われた言葉である。対する陣営は西側諸国

東側諸国

概要

 
広義の東側諸国。赤が共産主義陣営、茶色が東側寄り、または同盟国

「東側諸国」はソビエトに主導された軍事同盟・ワルシャワ条約機構の加盟国や、社会主義国による国際間経済組織・経済相互援助会議(コメコン)の加盟国の別名としても使われた。

名称の由来は、米ソがヨーロッパを東西に二分したうち、地理的に近かった東欧側をソ連が解放者の衛星国として勢力圏に置いたことにある。米国マーシャル・プランにより西側諸国を経済的支配に置いたことを警戒したソ連は、東欧諸国にマーシャル・プランのボイコットを呼びかけ、対抗して経済相互援助会議を創設し、東西両陣営の対立は先鋭化した。ソ連に「解放」された国々では、ソビエト連邦共産党のように共産党一党独裁体制を樹立。計画経済秘密警察強制収容所などソ連型社会主義を模した政治体制が各国で作られ、厳しい言論統制が行われた。

また、東ヨーロッパのみではなく、東アジアでは中華人民共和国北朝鮮モンゴルを始め、ベトナムラオスカンボジアといったインドシナも東側陣営に組み込まれていた。北東アフリカでもエジプト、(エチオピア)、スーダンソマリアリビアなどが東側の同盟国であった。西アジアでは南イエメンイラクシリアが東側に近かった。アメリカ大陸キューバもそうであり、このように第三世界諸国の中にも東側寄りの国が多くあった。現在の東側は共産主義というよりは反欧米国家を指す事が多くなっている。

現在は、アジアや旧ソ連地域、旧ユーゴスラビア地域などの中東欧やアフリカラテンアメリカなどでは中国による支援を受けている所が多い。また、旧ソ連地域や旧ユーゴスラビア地域などの東欧地域、アフリカインドベトナムラテンアメリカロシアによる支援を受けている所もある。

一覧

東側陣営

ヨーロッパ

アジア

中東

アフリカ

中南米

東側寄りの国

ヨーロッパ
アフリカ
アジア
中部・南アメリカ
オセアニア

社会主義政権だが、独自路線を辿った国

東ヨーロッパの例外

ユーゴスラビアは「東側諸国」やワルシャワ条約機構加盟国になったことがない。ユーゴスラビアは社会主義国家ではあったが、チトー元帥率いるパルチザン第二次世界大戦中にソ連軍が迫る前に独力でドイツ軍からの解放を成し遂げ、加えてスターリン主義に対する批判を行なったため、戦後もソ連の指導力は限定的であった。ユーゴスラビアは冷戦中、中立国であることを宣言し、非同盟運動の提唱国のひとつとなった。

スターリニズム国家のアルバニアも、第二次世界大戦の過程で政府を独力で樹立し、ソ連軍の影響からは独立した状態であった。アルバニアは1960年代前半に中ソ対立の結果、「反修正主義」の立場からソ連と対立して中華人民共和国と同盟。その後、中国が改革開放に転ずると中国とも決裂し、半鎖国的な独自路線を取っていった。

アジアの例外

北朝鮮は、建国期から朝鮮戦争期の1950年代まではソ連の影響下にあり、ソ連に加え、同時に中華人民共和国の軍事支援なども受けていた。その後、体制内派閥抗争による粛清が多く行われ、満州派であった金日成主席への個人崇拝体制へと変貌してゆく中で、中ソ対立の結果、双方と距離を置いた、「主体思想」と呼ばれる独自路線の体制・外交路線に向かっていった。

民主カンボジアは、中華人民共和国の支援を受けており、また対立していたベトナム民主共和国を支援していたソ連とも対立した。その後勃発したカンボジア・ベトナム戦争では、ベトナム社会主義共和国の軍事侵攻を受け、さらにベトナムの支援によって、親ベトナム・ソ連政権のカンプチア人民共和国政権が誕生した。中ソ対立で反ソ連の立場にあった中華人民共和国およびアメリカ合衆国日本などの西側諸国は、クメール・ルージュによる大量虐殺を受けてもなお、反ソ連で利害が一致した民主カンプチア政権側を支持し続けた。

ソ連の軍事勢力圏

東側の国々はしばしば軍事力を通じて、ソ連の勢力圏に留め置かれた。

ハンガリーは共産主義政権を倒し(ハンガリー動乱)、より民主的でモスクワから独立した国家運営の道を模索しようとしたが、1956年にソ連軍に侵攻された。

ポーランドの指導部はヴワディスワフ・ゴムウカを第一書記に選出しようとしたが、ゴムウカの選出をやめさせるようにとのソ連軍による最後通告を受けた[1]

チェコスロヴァキアは1968年プラハの春の自由化の後、ソ連軍に侵攻された(チェコ事件)。チェコスロヴァキア侵攻など1960年代後半以降の東欧侵攻に関するソ連の外交政策は、ブレジネフ・ドクトリンという公式な政策として成文化されている。

しかし1980年代後半、ミハイル・ゴルバチョフの率いるソ連は次第に東側諸国への内政干渉を行わないようになった。ブレジネフ・ドクトリンの廃止とシナトラ・ドクトリンとして知られる新思考外交は、東欧に劇的な影響を及ぼした。東側諸国の共産主義政権は1989年の夏から冬までの間に次々と崩壊し(東欧革命)、東側は終焉を迎えた。

東欧革命以前でも、ワルシャワ条約機構の全ての国が常に集団で行動したわけではない。1968年、ニコラエ・チャウシェスクはソ連によるチェコスロヴァキア侵攻を非難し、ルーマニアは侵攻に加わらなかった。それ以降ルーマニアはソ連とは一線を画した独自の道を歩むことになる

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ [1]

関連項目

外部リンク

  • 東側諸国の写真集 、1991年9月から12月、ソ連の最後の日々に撮られたもの
  • “イースタン・ブロック Eastern Bloc”は共産主義国家・旧共産主義国家での生活の特徴や違いを探る試みである。プロジェクトは章に分かれており、各章は東欧のある一カ国に対応している。
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