» www.Giftbox.Az - Bir birindən gözəl hədiyyə satışı
ウィキペディアランダム
毎日カテゴリ
共有: WhatsappFacebookTwitterVK

ルーマニア革命 (1989年)

ルーマニア革命(ルーマニアかくめい、ルーマニア語: Revoluţia română din 1989)は、1989年12月ルーマニア社会主義共和国ニコラエ・チャウシェスク政権が打倒され、現在のルーマニアが樹立された一連の出来事である。反チャウシェスク派によるクーデターと見ることができるためルーマニア政変とも言われる。

ルーマニア革命
Revoluţia română

革命軍が用いた旗。当時のルーマニアの国旗から共産主義を示す国章が切り取られ、穴が空いている。
戦争東欧革命
年月日1989年12月16日 - 26日
場所ルーマニアルーマニア社会主義共和国
結果共産党政府の崩壊、ニコラエ・チャウシェスクの処刑
交戦勢力
反政府勢力 共産党政府
指導者・指揮官
イオン・イリエスク
ペトレ・ロマン
(ニコラエ・ミリタル)
ステファン・グシェ
ニコラエ・チャウシェスク  
エレナ・チャウシェスク  

概要

1989年、東ヨーロッパ各国の共産党政府が相次いで崩壊した東欧革命において武力により共産党政権が打倒された唯一の革命である。

ルーマニア共産党書記長のチャウシェスクが命じた民主化デモの武力鎮圧に反対した国防相のヴァシレ・ミリャの急死をきっかけに、国軍がチャウシェスクに反旗を翻して民主化勢力を援護し、政権側に付く秘密警察セクリターテとの武力衝突に陥った。革命軍は1週間で全土を制圧してチャウシェスクを処刑し、非共産党政権を樹立した。

前史

第二次世界大戦において、ルーマニア王国イオン・アントネスク政権下でナチス・ドイツを中心とする枢軸国に与し、独ソ戦に参戦した。反攻に転じたソ連軍がルーマニア国境に迫ると、ルーマニアは連合国に寝返ったものの(ルーマニア革命 (1944年))、ソ連軍占領下に置かれ、戦後に王政は崩壊し、ルーマニア共産党一党独裁の国家、ルーマニア社会主義共和国が成立した。

ルーマニアは、チャウシェスク就任後は他の東欧諸国とは一線を画し、ソ連とも一定の距離を置く独自外交を行っていた。これはルーマニアが産油国であり、ソ連に依存しなくても独自に外貨獲得やエネルギー資源確保が可能だったためである。ソ連や近隣諸国の影響力を排除した結果、国内におけるチャウシェスクの求心力は高まり、「チャウシェスク王朝」とも言われた個人独裁体制を確立した。

しかしながら、1980年代に入ると経済政策に失敗し、国内経済の疲弊が始まった。対外債務の返済のために飢餓輸出が強行された結果、国民の生活水準は低下した。その一方でチャウシェスク自身は国民の館と呼ばれる豪華な宮殿を建設し、一族を要職に就けるなど国民生活を無視するような政治を続けたため、ルーマニア国民の間では独裁政権に対しての不満が日増しに強くなった。こうした状況の中で、1989年に入り中国六四天安門事件が起こり、東欧でもポーランドを皮切りに各国の共産党政権が次々と倒れると、ルーマニアでも次第に民主化を求める機運が高まっていった。

これに対してチャウシェスクは情報統制と反政府勢力の弾圧強化を図り、民主化運動への一切の妥協を拒否すると共に政権の維持に固執した。

革命の推移

発端

勃発

  • 12月21日 - 首都ブカレストで官製集会の最中に爆発事件が発生する。
    • ルーマニア共産党本部庁舎前の広場(旧王宮広場)で約10万人を動員したチャウシェスクを称賛する官製集会が開催された。チャウシェスクの演説が始まって間もなく、ティミショアラ事件に抗議するルーマニア人参加者が爆弾を2つ爆発させた(実行犯は警察により射殺された。10代の若者2人が爆竹を爆発させたと言う説もあるが詳細は不明なところが多い)。広場はパニック状態に陥り、集会は強制解散させられた。なお、この集会は国営ルーマニア放送で生中継されていたがチャウシェスクの演説が始まった直後、群集がパニック状態になっている姿を見てたじろぐ姿が映しだされているところで放送が中止された(その後、放送は再開された)。
    • 集会参加者の一部に大学生・市民の一部が合流しチャウシェスク独裁の抗議集会へと発展した。しかしこの政治集会に対してもセクリターテが発砲し、多数の死傷者を出す事態となった。軍隊も動員されたが、車両で抗議集会の妨害をする程度にとどまり、直接市民を殺傷することはなかった。市民の政権に対する不満は頂点に達した。
    • この状態に危機感を抱いたチャウシェスクは、国防相ワシーリ・ミリャに対し、軍隊による発砲も含めた鎮圧を指示した。しかし、彼は「人民には発砲できない」と、この命令を拒否した。その後、ミリャは自室で銃で撃たれ死亡した状態で発見された。翌日、国営ルーマニア放送は「国防相が自殺した」と報じたものの、市民の間には「チャウシェスクに処刑された」との噂が広まった。軍部の中にも処刑説が広がり、政権に反旗を翻すきっかけとなった。同日夜には軍隊が広場に集まる市民の側に立ち、政府機関(共産党本部等)の占拠が始まった。

混乱と逃亡

  • 12月22日 - 革命勢力の攻勢は大統領宮殿にまで及び、チャウシェスクはブカレストから脱出、政権は崩壊した。反体制派勢力は共産党の反チャウシェスク派とともに暫定政権「救国戦線評議会」を組織し、テレビラジオ局を掌握した。これにより国営ルーマニア放送は「自由ルーマニア放送」と改称される。
    • チャウシェスクは非常事態宣言を出し、事態に対応しようとするが、国軍がミリャの不審死で離反し、革命勢力の支持に回り頓挫した。共産党本部の屋上から妻エレナや側近と共にヘリコプターでの脱出を図った。しかし一連の逃亡劇は反体制側に転じた国営放送の他、世界各国のマスメディアで映像が流されるなど、お粗末なものであった。
    • 一見盤石な支配体制を築いていたと思われていたチャウシェスクは、この逃亡劇においても多くの裏切り行為に遭った。ヘリコプターのパイロット、マルタン中佐は、わざと機体を上下に揺らして「レーダーに捕捉され、対空砲火を受けた」と嘘をついて夫妻の逃亡を妨害した。やむなくヘリでの逃亡を諦めたチャウシェスクは着陸させ、陸路での逃亡を試み、たまたま自動車を運転していた地元の医師ニコラエ・デカを脅し逃亡を手伝わせた。しかし、革命を知っていたデカは面倒ごとに巻き込まれたくないとエンジントラブルを装い、すぐに一行を降ろした。再び一行は車を洗っていた工場労働者のニコラエ・ペトリソルを脅し、南部の都市トゥルゴヴィシュテへ向かわせた。車中のチャウシェスクはカーラジオで情報収集を試みたが、既にメディアが救国戦線に掌握されたことを知ると激高したという。ペトリソルは街の外れにある農業施設まで彼らを案内した。施設の所長は匿うふりをして一行を一室に案内して監禁し、近くに駐屯していた国軍[1]に身柄を引き渡した[2]
    • その後、首相のコンスタンティン・ダスカレスクは辞任し、内閣も総辞職した。チャウシェスク政権を批判して投獄されていた政治犯も次々と釈放された。夜になると、ブカレスト市内各地で反体制派についた国軍と大統領派のセクリターテによる激しい市街戦が発生し、多数の死傷者が出た。
  • 12月23日 - 前夜からの市街戦は更に激しくなっていく。大統領派は秘密の地下通路などを利用して国軍や市民への発砲を続けた。救国戦線評議会は、発砲してくる大統領派を「テロリスト」と呼び市民に協力を要請し、これに応じた市民もをとり、大統領派に応戦する。混乱により情報が錯綜する中、ハンガリーから軍の派遣要請の連絡を受けるが、これを拒否する。また、ソ連が事態沈静化の為に介入しようとするが、これも拒否する。そして救国戦線と国軍によりチャウシェスク夫妻が逮捕されたことが、18時にテレビで報道された。

崩壊

  • 12月24日 - ブカレスト市内の市街戦は依然として続いていたが、大統領派の逮捕も相次いでいく。
  • 12月25日 - チャウシェスク夫妻が拘禁されていた基地で特別軍事法廷が開かれ、夫妻は大量虐殺と不正蓄財の罪により死刑判決を受け、即日銃殺刑が執行された(ニコラエ・チャウシェスクの裁判と処刑)。
    • 救国戦線は当初軍事裁判ではなく、ブカレストに夫妻を連行して通常裁判を実施する予定であった。また、当時のルーマニアの法律では死刑確定後10日間は執行してはならないとされていた。しかし、セクリターテがチャウシェスク奪還を企図して基地に攻撃を仕掛け、激しい銃撃戦となったため(後述)、救国戦線は対応を急いだ。また、生存説が流布される事を危惧した救国戦線は、処刑された夫妻の死体の映像をメディアに公開した。
    • 銃殺を命じられた軍人3人のうち、2人は緊張から執行できず、残る1人のイオネル・ボエルが引き金を引いた。革命成就後、ボエルはセクリターテによる報復を恐れる住民から関わりを避けられるようになり、妻とも離縁した。「正しいことをやったと思っているが、なぜ私が選ばれたのか」とボエルは述懐している[3]
  • 12月26日 - 救国戦線評議会が新指導体制を発表し、暫定政権を樹立。同日、チャウシェスク夫妻の処刑が発表される。これを機に大統領派の抵抗も終息していく。

革命後

 
政権樹立発表後のイリエスク(中央)、副議長の(ドゥミトル・マジル)(ルーマニア語版)(左)、暫定首相のペトレ・ロマン(右)
 
チャウシェスクの墓

チャウシェスク処刑とルーマニア共産党政権の崩壊を受け、救国戦線評議会による暫定的な革命政権を経て、1990年5月20日にルーマニアで初となる多数政党制による自由選挙が行われ、政党に衣替えした救国戦線が勝利を収めた。また後に国民による投票としては初めての大統領選挙が行われ、イオン・イリエスク[4]が大統領の座に就いた。

その後、イリエスクは1990年から1996年、また2000年から2004年にかけて大統領を務めたが、革命に至るまでの経緯の中には不明な点も多く、市民団体より司法当局に真相解明を求める声が絶えなかった[5]。2018年12月、検察当局は「革命の最中にテレビや記者発表を通じデマを広め混乱を生じさせた結果、800人以上の死亡者を出した責任がある」として、人道に対する罪でイリエスクを起訴したと発表した[6]。しかし既に死亡した関係者も多いことから、公判での立証は困難を極めるとされている[5]

他の東欧諸国では、自由選挙の下で多かれ少なかれ旧共産党が議席を獲得したが、ルーマニアでは革命後に共産党が消滅し、共産党そのものが一時期非合法となった。ルーマニア共産党関係者の中には、救国戦線に参加して政治生命を保った者がいる一方で、「(社会主義労働者党)(ルーマニア語版)」という政党が共産党の後継政党を称したが、広く支持を得るには至らなかった。

銃撃戦が発生した理由

一連の革命の中には経緯が不明な点も多いが、中でも12月22日にチャウシェスクが共産党本部から脱出した後に銃撃戦が発生した理由は最大の謎とされている[4]

革命後のイリエスク政権で国防相を務めた(ヴィクトル・スタンクレスク)(英語版)将軍2016年死去)の証言によって、救国戦線側によるでっち上げとの疑惑が浮上した[4]

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ デカの通報を受けて既に情報をつかんでいた。
  2. ^ George Galloway and Bob Wylie, Downfall: The Ceaușescus and the Romanian Revolution
  3. ^ 【憂楽帳】独裁者の処刑人『毎日新聞』夕刊2019年1月5日(社会面)2019年1月8日閲覧。
  4. ^ a b c “”. mainichi.jp (2019年5月4日). 2019年5月4日閲覧。
  5. ^ a b “ルーマニア革命の「真実」立証困難 30年後の新証言”. 毎日新聞. (2019年5月3日). https://mainichi.jp/articles/20190503/k00/00m/030/161000c 2019年10月7日閲覧。 
  6. ^ . 時事ドットコム. 時事通信社. (2018年12月24日). 2020年4月20日閲覧。 

参考文献

  • 松丸了『ルーマニア革命 ブカレスト駐在日本人の記録』東洋経済新報社、1990年。
  • シルビュ・ブルカン(大塚寿一訳)『ルーマニア・二つの革命 「不毛な世代」のわが体験』サイマル出版会、1993年。
  • 惠谷治「ルーマニア革命は「市民蜂起に便乗した宮廷クーデター」だった」。 

関連項目

ウィキペディア、ウィキ、本、library、論文、読んだ、ダウンロード、自由、無料ダウンロード、mp3、video、mp4、3gp、 jpg、jpeg、gif、png、画像、音楽、歌、映画、本、ゲーム、ゲーム。