日本における元帥(げんすい)は、日本軍における最高位の階級または称号である。
元帥を超える階級もしくは称号は、天皇が称した(大元帥)のみである。1872年(明治5年)から1873年(明治6年)においては元帥(陸軍元帥)の階級を指す。ただし、この段階では「海軍元帥」は存在しない。1898年(明治31年)以降は元帥府に列せられた陸軍大将または海軍大将に与えられた称号(元帥陸軍大将)及び(元帥海軍大将)である。現在の自衛隊にはこれに相当する称号は存在しない。
概要
階級
日本軍(陸・海軍)における元帥の制度は、1872年(明治5年)旧暦7月19日に参議西郷隆盛が陸軍元帥の階級に任官した[1]のが始まりである。さらに同年7月29日には参議兼陸軍元帥西郷隆盛が改めて陸軍元帥兼参議に任じられている[1]。そして、明治5年9月7日太政官布告第252号[2]により大元帥及び元帥の服制が制定された。同布告によって定められたのは大元帥と元帥の階級章であるが、天皇が大元帥となった場合の階級章と釦も大元帥とは別に定められていた[注 1]。このことから、当時は天皇以外の者が大元帥となることも想定されていたと指摘されている[3]。1873年(明治6年)5月8日の官制改正で元帥の階級が廃止されたため、西郷隆盛はその時点で陸軍大将となった(大元帥の任官者は無かった)。階級としての元帥制度の運用は、このように極めて短期間で終了した。
称号
1898年(明治31年)に元帥府条例が制定され、「陸海軍大将ノ中ニ於テ老功卓抜ナル者」[注 2]に軍務の顧問としての元帥の称号を与えることになった。この際に称号を与えられたのは、小松宮彰仁親王、山縣有朋、大山巌及び西郷従道(陸軍3名・海軍1名)だった。また、それと同時に同年の勅令第96号「元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件」で、元帥徽章の制式及び着装方法について定められた。さらに、1918年(大正7年)勅令第331号「元帥佩刀制式」が定められ、(元帥佩刀)(元帥刀)の制度が設けられた(他国の元帥杖に相当)。元帥は天皇の最高軍事顧問として元帥府に列し、陸海軍大将以下とは異なり終身現役[注 3]であった。
日本における元帥とは、「元帥の称号を賜って元帥府に列した陸海軍大将」であり、個別の階級ではないため、「陸軍(海軍)元帥」とは呼ばず[4][5]、階級章も大将と同じものを着用した。山本五十六について例示すると、「元帥海軍大将 山本五十六」または「山本元帥」と呼称するのが正しく、「海軍元帥 山本五十六」「山本海軍元帥」と呼称するのは誤りである[4][5]。
明治時代には陸軍5名・海軍3名(西郷隆盛を除く)、大正時代には陸軍6名・海軍6名、昭和時代には陸軍6名・海軍4名に元帥の称号が与えられた。第二次世界大戦および太平洋戦争中は、陸軍で3名(寺内寿一、杉山元、畑俊六)、海軍で3名(永野修身、山本五十六、古賀峯一)が元帥に叙されたが、うち海軍の2名(山本と古賀)は死後追贈であり、永野が唯一生前に叙された。
1926年(大正15年)4月26日には、元帥礼遇が大勲位昌徳宮李王坧に対して与えられている。
1945年(昭和20年)勅令第669号「元帥府条例等廃止ノ件」により、日本の元帥制度は廃止された。この時点で元帥であった存命者は、梨本宮守正王、伏見宮博恭王、寺内、畑および永野の5名だった。
元帥一覧
陸軍元帥
- 西郷隆盛 - 1872年(明治5年)7月 - 1873年(明治6年)5月
- 階級としての元帥であるため、後の「元帥(元帥陸軍大将・元帥海軍大将)」とは性質が異なる。
- 階級としての「陸軍元帥」に任官したのは日本の軍隊史上、西郷隆盛ただ一人である。なお「海軍元帥」は存在しない。
下記の「元帥陸軍大将」及び「元帥海軍大将」とは別称の名誉の官職及び称号である。
元帥陸軍大将
- 小松宮彰仁親王 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 山縣有朋 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 大山巌 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 野津道貫 - 1906年(明治39年)1月31日受
- 奥保鞏 - 1911年(明治44年)10月24日受
- 長谷川好道 - 1915年(大正4年)1月9日受
- 伏見宮貞愛親王 - 1915年(大正4年)1月9日受
- 川村景明 - 1915年(大正4年)1月9日受
- 寺内正毅 - 1916年(大正5年)6月24日受
- 閑院宮載仁親王 - 1919年(大正8年)12月12日受
- 上原勇作 - 1921年(大正10年)4月27日受
- 昌徳宮李王坧 - 1926年(大正15年)4月26日受[注 4]
- 久邇宮邦彦王 - 1929年(昭和4年)1月27日受 (病死後追贈)
- 梨本宮守正王 - 1932年(昭和7年)8月8日受
- 武藤信義 - 1933年(昭和8年)5月3日受
- 寺内寿一 - 1943年(昭和18年)6月21日受
- 杉山元 - 1943年(昭和18年)6月21日受
- 畑俊六 - 1944年(昭和19年)6月2日受
元帥海軍大将
- 西郷従道 - 1898年(明治31年)1月20日受
- 伊東祐亨 - 1906年(明治39年)1月31日受
- 井上良馨 - 1911年(明治44年)10月31日受
- 東郷平八郎 - 1913年(大正2年)4月21日受
- 有栖川宮威仁親王 - 1913年(大正2年)7月7日受(死後追贈)
- 伊集院五郎 - 1917年(大正6年)5月26日受
- 東伏見宮依仁親王 - 1922年(大正11年)6月27日受(死後追贈)
- 島村速雄 - 1923年(大正12年)1月8日受(死後追贈)
- 加藤友三郎 - 1923年(大正12年)8月24日受(死後追贈)
- 伏見宮博恭王 - 1932年(昭和7年)5月27日受
- 山本五十六 - 1943年(昭和18年)4月18日受(死後追贈)
- 永野修身 - 1943年(昭和18年)6月21日受
- 古賀峯一 - 1944年(昭和19年)3月31日受(死後追贈)
ギャラリー
注釈
- ^ (天皇の陸軍式御服)はその後、明治13年10月11日太政官布告第五十五号によって定められた。
- ^ 「大将昇進後に卓抜の功績を挙げた者」と言う意味であるため、大将昇進前に卓抜の功績を挙げても元帥叙任要件には含まれない事となる。現に秋山好古(日露戦争でロシアのコサック騎兵に勝利を収めた当時は少将)のように、著名な功績があっても元帥に叙されなかった大将も存在する。
- ^ そのため、後述の山本五十六と古賀峯一のように、要件を満たしながら元帥に叙されず、かつ現役のまま死去した大将には、死亡日付で死後追贈される事もあった。また終身現役だけに、最高軍事顧問としての職務自体は(他の新補職との兼任を伴わない限り)老齢や病身でも堪えうる閑職で、奥保鞏が高齢に伴う聴力低下を理由に元帥辞任を願い出た際にも、体調への配慮がされず却下となっている。
- ^ 元大韓帝国皇帝。李王となって後、陸軍大将の礼遇を受けていた。4月26日に元帥の礼遇を受ける(「元帥ノ礼遇ヲ賜フ」 アジア歴史資料センター Ref.A10110717300 )。李王坧はこの前日に没しているが、追贈という形ではなく、その死が正式に報告される前のことであった((新城道彦)『朝鮮王公族 ―帝国日本の準皇族』中公新書、2015年3月。ISBN (978-4-12-102309-4)。、Kindle版、位置No.全266中 181 / 68%)
脚注
参考資料
関連法令
- 元帥府条例(明治31年勅令第5号)
- 明治31年勅令第96号(元帥徽章ノ制式及装著ニ関スル件)
- 大正7年勅令第331号(元帥佩刀制式)
- 昭和20年勅令第668号(元帥府条例等廃止ノ件)