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高野長英

高野 長英(たかの ちょうえい、文化元年5月5日1804年6月12日〉- 嘉永3年10月30日1850年12月3日〉)は、江戸時代後期の医者・蘭学者通称は悦三郎、は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。実父は後藤実慶。養父は伯父・高野玄斎。江戸幕府異国船打払令を批判し開国を説くが、弾圧を受け、死去した。1898年明治31年)7月4日)、その功績により正四位を追贈された。主著に『戊戌夢物語』・『わすれがたみ』・『三兵答古知機』など。また、オランダ語文献の翻訳作業も多く行っている。

高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半頃描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財

生涯

誕生

陸奥国仙台藩の一門である水沢領主水沢伊達家家臣・後藤実慶の三男として生まれる。養父の玄斎は江戸杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く、長英も幼いころから新しい学問に強い関心を持つようになった。文政3年(1820年)、江戸に行き、杉田伯元(杉田玄白の養子)や吉田長淑に師事する。この江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗った。

シーボルト事件

文政3年(1820年)、父の反対を押し切り出府して、長崎に留学してシーボルト鳴滝塾医学蘭学を学び、抜きん出た学力で塾頭となる。文政11年(1828年)、シーボルト事件が起き、二宮敬作高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れている。間もなく豊後国日田(現・大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶。家督を捨て、同時に武士の身分を失う。

尚歯会入会

天保元年(1830年)江戸に戻り、麹町に町医者として大觀堂学塾(蘭学塾)を開業する。まもなく三河田原藩重役渡辺崋山と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たった。わが国で初めて、ピタゴラスからガリレオ・ガリレイ、近代のジョン・ロックヴォルフに至る西洋哲学史を要約した。

天保3年(1832年)、紀州藩儒官(遠藤勝助)の主宰する、天保の大飢饉の対策会である尚歯会に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である。

鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた。多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた。それを妬んだ仲間の伊東玄朴が、長英を階段から突き落としたが、長英は「GEVAARLIJK!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ、という逸話がある。長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったが、当時の蘭学者として最大の実力者であると周囲は認めざるを得なかった。

蛮社の獄

 
旧高野家離座敷(さいたま市緑区)
 
南青山の「高野長英先生隠れ家」の碑

天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。翌天保9年(1838年)にこれを知った際、長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回っている)。

天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ(奉行所に自ら出頭した説もある)、永牢終身刑の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監[1]。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられるようになった。獄中記に『(わすれがたみ)』がある。

弘化元年(1844年6月30日、牢屋敷の火災による「切り放ち」[† 1]に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力である。切り放ち後、長英は再び牢に戻って来ることはなかった。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも、大間木村(現:さいたま市緑区)の高野隆仙のもとに匿われた[2]。高野家離座敷は文化財[3]として公開されている。後に、一時江戸に入って鈴木春山に匿われ、兵学書の翻訳を行うも春山が急死。鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したとされる。

しかし、この生活も長くは続かず、暫くして江戸に戻り、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。このとき、江戸では既に長英の人相書きが出回っていたことと、医者になれば人と対面する機会が多くなり、誰かに見破られることも十分に考えられたため、逃亡生活の最中に硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされている。

麻布宮村町(現在の東京・元麻布)、郷里水沢、麻布本村町(同・南麻布)と所を変え妻子と共に隠棲していたが、嘉永3年(1850年)10月30日、江戸の青山百人町(現在の南青山5丁目)に潜伏していたところを何者かに密告された。南町奉行遠山景元配下の同心や捕方らに踏み込まれて捕縛された。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命したという[† 2]

評価

  • 勝海舟 「高野長英は有識の士だ。その自殺する一ヶ月ばかり前に(横谷宗與)の紹介で、夜中におれの家へ尋ねて来て、大いに時事を談論して、さて帰り際になって、おれに言うには、拙者は只今潜匿の身だから、別に進呈すべき物もないけれど、これはほんの志ばかりだといって、自分が謄寫した徂徠の『軍法不審』を出してくれた」[4]

故郷水沢での長英

 
高野長英誕生の地の碑(岩手県奥州市水沢)

岩手県奥州市水沢(旧・水沢市)では、長英は三偉人(高野長英・後藤新平斎藤実)の一人として扱われている。また、小学校では良く総合的な学習の時間で取り上げられ、その生涯・功績を学んでいる。また、平成16年(2004年)には高野長英の生誕200年ということで、水沢では色々なイベントが行われた。

高野長英記念館

1971年(昭和46年)に岩手県奥州市水沢中上野町に奥州市立高野長英記念館が設立された[5]

著作文献

伝記

高野長英が登場する作品

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 火災時には避難目的での一時釈放が制度化されていた。三日以内に戻って来れば罪一等減じるが戻って来なければ死罪に処すと言い渡された。石出帯刀も参照。
  2. ^ 現場にいたある捕手役人の覚書による。しかし、奉行所に提出された報告書によれば、長英は短刀を振るって奮戦した後、喉を突いて自害したとある。当時の奉行所としては、正式な取り調べもせずに容疑者を死亡させた不祥事を隠蔽する目的で虚偽の報告書を作成させた可能性も否定はできない。

出典

  1. ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日). https://news.yahoo.co.jp/byline/fukuwanobuo/20200824-00194508 2020年12月2日閲覧。 
  2. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日、182頁。ISBN (4040011104)。 
  3. ^ 旧高野家離座敷 さいたま市
  4. ^ 「海舟全集 第十巻」
  5. ^ 高野長英記念館 、2020年3月30日閲覧。

参考文献

  • (田中弘之) 『「蛮社の獄」のすべて』(吉川弘文館、2011年)

関連項目

外部リンク

  •   ウィキメディア・コモンズには、高野長英に関するカテゴリがあります。
  • 奥州市立高野長英記念館 公式サイト
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