伊奈城(いなじょう)は、三河国宝飯郡伊奈町深田、現在の愛知県豊川市伊奈町にあった日本の城(平城)。豊川市指定史跡[1]。
概要
徳川家の家紋「三葉葵の紋」発祥の城として知られている[注釈 1]。
室町時代に(本多定忠)・(本多定助)によって築城され、約150年間(伊奈本多氏)の居城であった。
歴史
三河国平定
東三河攻め
1529年(享禄2年)、三河平定を推し進める松平清康(徳川家康の祖父)は東三河へ進攻して吉田城(豊橋市)へ迫った。伊奈城主本多正忠は(姻戚関係)であった吉田城主牧野氏との関係を絶ち、いち早く清康の陣に参。夜陰に紛れて吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入し松平勢を導き入れたという。
田原攻め
吉田城を攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略へ向けた。しかし、田原城主の四代目戸田宗光は、戦わず清康の下へ降った。この時、宗光は清康の一字を貰い受けて「戸田康光」と名乗る。この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたとされている。
この後、清康は吉田城へ凱旋し、東三河の諸豪族の服従を受けて、本拠地の岡崎へ戻るが、田原城から吉田城への凱旋の途中、伊奈城へ立ち寄って勝利の祝宴を開いた。その際に正忠は、城内にあった「花ヶ池」の水葵の葉に肴を盛って差出したという。
清康は喜悦して、
「立葵紋は正忠の家紋なり、此度の戦に正忠最初に味方となりて勝ち戦となる。吉例なり、賜らん」
と本多家の「(立葵紋)」を所望したという。このことにより、正忠は清康への心服の情が一層深まったとされる。
後に立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に「三葉葵紋」となったとされる。
守山崩れ
破竹の勢いで三河を平定した松平清康であったが、1535年(天文4年)の尾張の織田信秀攻めで出陣中に守山で家臣に殺害されてしまう(「守山崩れ」)。
この事により、松平氏による三河支配は瓦解して、再び三河国内は乱れてしまった。
今川義元と桶狭間
守山崩れの後、三河国は駿河・遠州の今川義元による版図となり、正忠は今川方の属将となる。正忠の後に、忠俊が伊奈城主を継いだ。
1560年(永禄3年)、桶狭間で今川義元が敗死すると、忠俊は子の光忠と共に松平元康(徳川家康)の下に参じて戦功を重ねることとなる。忠俊の後、光忠は病身であったため弟の忠次が伊奈城主となる。
再び三河国平定へ
1564年(永禄7年)、光忠と忠次は吉田城攻めを家康に進言、二連木城の戸田重貞を説いて味方にするなどして活躍した。この功により伊奈城主の忠次には五千貫の地が与えられた。
忠次は酒井忠次と陣を同じくして、姉川・長篠、高天神城と戦い続け、戦功を重ねた。しかし、忠次には子がなかったため、同陣の酒井忠次の次男を養子で迎え、名を康俊とした。
家康関東移封と廃城
1590年(天正18年)、家康の関東移封に伴い、伊奈本多氏は先祖代々約150年間住み続けてきた伊奈城を去ることとなる。伊奈本多氏の封地は、下総国(小篠郷)五千石であった。伊奈城はその後、廃城となる。
その後
1600年、関ヶ原の戦い後、康俊は三河西尾城二万石の大名となった。養父忠次は西尾で没した。
1615年、大坂の陣の戦功で近江膳所城三万石を拝領した。康俊の後は俊次が継いだ。俊次は後に加増再封されて七万石の藩主となる。以後十三代膳所藩主として続き、明治を迎えた。
遺構
現在は本丸の部分が「伊奈城趾公園」(いなじょうしこうえん)として整備され、曲輪と土塁が残っている[2]。また模擬櫓が復元されている。1997年(平成9年)3月3日に、城内にあった「花ヶ池」とともにそれぞれ市の史跡に指定された[1]。
アクセス
鉄道
- 東海旅客鉄道(JR東海)
自家用車
周辺
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
- 豊川市 伊奈城趾公園(豊川市役所)
- 伊奈城趾公園 | ぐるっと豊川(豊川市観光協会)
- 伊奈城(史跡夜話)