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丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。
呼称
秦の荘襄王の即位に多大な功績のあった呂不韋や、漢の高祖(劉邦)をその旗揚げ以来、ずっと補佐してきた蕭何と曹参のような、大功臣が丞相職につく場合には、それに敬意を表する意味で「相国」と呼ばれることがある。(鎌田重雄)のように、春秋戦国時代に相邦の権威が高まり、君主権を干犯しかねない状況が相次いだので、副宰相というべき「丞相」が設けられ、これが宰相を指すことになっていったという研究者もいるが、詳細は不明である[注 1]。
丞相が2名置かれることがあり、その場合それぞれ「右丞相」「左丞相」と呼ばれた。王朝によってその上下関係に違いがあり、秦漢では右が上、魏晋以降は左が上となった。なお、宦官がこの官職に就く場合は、中人(宦官)の丞相ということで「中丞相」と呼ばれた。
日本での異称
日本では、飛鳥時代の末期に中国の律令制度が伝えられ、徐々に国家機構が整備されていった。行政・立法・司法を統括する最高国家機関として太政官が設置され、その長官である左大臣・右大臣はそれぞれ唐名で「左丞相」・「右丞相」などと称することがあった。例えば右大臣菅原道真を「菅丞相」と呼ぶなどである。
歴史
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秦
丞相の起源は戦国時代であり、百官の長とされた。丞相の官名を初めて使ったのは秦の武王[1]であり、左右の丞相を置く事もあり、時に単独で相邦が立つこともあった。秦の統一後は左丞相と右丞相のみが置かれ、秦・漢の時代は右丞相の地位が左丞相より高く、魏・晋の時代になると両者の立場は逆転した。宦官が丞相を務める際は中丞相と呼ばれ、代表的な人物が趙高である。
漢
前漢の丞相は御史大夫・太尉とあわせた三公の首位で、初期には権威と声望が高く、名実ともに官僚機構の頂点にあった。武帝が皇帝の専制を強めると、皇帝の側近くにある侍中や、皇帝の文書事務を扱う尚書が政務の中心となり、丞相の権威は低下した[2][3]。前漢の哀帝の元寿2年(紀元前1年)に丞相は大司徒と改称され、丞相の名称は廃止された。
前漢では各地に封建された諸侯王の宰相も丞相と呼ばれたが、景帝の中元5年(紀元前145年)に諸侯王の丞相は「相」と改称され、王朝の丞相と区別されるようになった(歴史用語としては諸侯相と呼んで区別される)。
後漢の三公は太尉・司徒・司空で、丞相はない。その後、実質的な魏の建国者である曹操が、後漢末の建安13年(208年)に丞相を復活させ、自らその地位に就いた。
三国・魏晋
三国時代には、魏・蜀・呉のすべてに丞相が置かれた。蜀に諸葛亮が1人だけ就任した。諸葛亮の死後、丞相職は置かれなかった。ただし、蔣琬と費禕は(大将軍)や録尚書事などの高官職をすべて兼務して丞相とほぼ同じ職権を有していた。呉では丞相職が長い間置かれていたが、主に顧問の役割を果たし、その実権は上大将軍・大将軍・大司馬の軍職が継承した。魏ではその始祖の曹操自身が丞相と呼ばれていて、丞相が長い間置かれず、後期になって司馬懿が丞相に任ぜられたが固辞している。後にその子の司馬昭が相国に任ぜられ、司馬昭の子の司馬炎がこれを継いだ。司馬炎はこれを足がかりに魏王朝を禅譲(簒奪)した。
中国王朝などの丞相就任者
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「前漢丞相、相国、大司徒の一覧」も参照
「後漢相国、丞相の一覧」も参照
「三国相国、丞相、司徒の一覧」も参照
「晋朝相国、丞相の一覧」も参照
「十六国相国、丞相の一覧」も参照
「南朝相国、丞相の一覧」も参照
「北朝相国、丞相の一覧」も参照
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脚注
注釈
- ^ 「丞」は副官の意なので、「相(宰相)」の「丞(副官)」で直訳すると副宰相となる。
出典
- ^ 『史記』「秦本紀」:秦武王二年,初置丞相。
- ^ 尾形 & 平㔟 1998, pp. 318–321.
- ^ 中国の文明 第3巻 2015, p. 112.
参考文献
関連項目
外部リンク
- 『(丞相)』 - コトバンク