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三公

三公(さんこう)は、中国およびその影響を受けた東アジア諸国の前近代の官制において、最高位に位置する3つの官職をいう。その起源は王朝に始まるといわれる。

概要

においては、太師太傅太保の3官職が三公と呼ばれていた。周では宮廷の庭にえんじゅの木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。または、(三台星)にちなんで三台とも。前漢では行政を司る丞相大司徒)、軍事を司る太尉大司馬)、監察・政策立案を司る御史大夫大司空)の3官が三公と呼ばれ、後漢以降は司徒・太尉・司空と名を改められた。和帝は三公が承天安民の策を行っていないと叱咤している例[1]桓帝の太尉である楊秉が三公は故事によれば「統べざる所無き官」であると帝に説明している例[2]から、当時の三公は国政に関する政策全般を統括する官であったが、後漢の実権を握った曹操が208年に丞相と御史大夫を復活させて自らが丞相に就任した際に三公を廃止してしまった[3]

の成立後には三公が復活していたものの、実権を尚書などに奪われ長老の名誉職と化していたらしく、『魏志高柔伝には「三公を月二回参内させるほか天下の事件について意見を聴取するよう改めるべき」という上書が引用されている。高柔本人ものちに三公になったが、そのとき73歳であった。やがて三省六部の制が整えられるに及んで三公は完全に名誉職となり、時代によっては再び太師・太傅・太保の3官職が三公とされることもあった。

日本では、律令制における太政官の長である太政大臣左大臣右大臣のことを指す。のちに右大臣の下に内大臣が置かれると、常任の官ではない太政大臣を外して、左大臣・右大臣・内大臣のことを指す例もあらわれたが、江戸時代禁中並公家諸法度が制定されると内大臣を含まず太政大臣を含むものと定義付けられた。源実朝の歌集が『金槐和歌集』と称されるのは、彼が三公(三槐)のひとつである右大臣であったことにちなむものである。

ほか、朝鮮半島では、高麗のときに「大衛」「大司徒」「大司空」が設置され、李氏朝鮮では領議政左議政右議政議政府を構成した「三政丞」が三公に該当する。

脚注

  1. ^ 『後漢書』巻4和帝紀・永元12年条
  2. ^ 『後漢紀』巻22桓帝紀・延熹7年条
  3. ^ 渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) (ISBN 978-4-657-14701-1) 第三章「〈三公形骸化説〉の再検討」

関連項目

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