生涯
天福12年(947年)、兄の忠献王銭弘佐が薨去したが、その子が幼少であったため銭弘倧が王位を継承した。当時は遼の太宗耶律堯骨が後晋を滅亡させて中原を占拠しており、呉越もその臣と称していたが、遼軍の撤退後は後漢に臣従してその正朔を奉じている。
忠献王の在位時は、王が幼少であったことに乗じて諸将の専横があったため、即位した忠遜王は諸将を抑制する政策を実施した。しかし改革が性急過ぎたため、自らの地位に危機感を抱いた内牙統軍使(胡進思)らの反発を招いた。天福12年12月30日(948年2月12日)、胡進思らは夜宴に乗じて政変を起こし、忠遜王は軟禁され、異母弟の銭弘俶(忠懿王)が擁立された。胡進思は間もなく病没したが、忠遜王の軟禁状態は継続することとなる。
広順元年(951年)、忠懿王は忠遜王を東府越州に移し、その地に宮殿を造営して厚遇している。後の政変を防ぐために臣下が殺害を勧めたが、忠懿王は泣いて拒否した。
子の(銭惟治)・(銭昆)・(銭易)は忠懿王に引き取られて養子として育てられ、宋に帰順後は共に進士となり、官僚として宋に仕えた。
家族
父母
男子
- 銭惟治
- 銭昆
- 銭易