生涯
天復2年(902年)、唐により鎮海節度使に任命された銭鏐は杭州を攻撃して来た宣州刺史の(田頵)から人質の提供を求められた。他の兄弟がことごとく敵陣に向かうことを拒否する中、伝瓘のみが人質となることを志願した。後に帰還した伝瓘は、成人後に呉越の軍勢を率いて各地を転戦するなどの武功を上げた。これらの活躍により、(銭元璲)・(銭元懿)(銭元璹)・(銭元璙)らの諸兄に譲られる形で武粛王の後継者となった。
宝正7年(932年)、武粛王の薨去にともない後を継いだが、王を名乗らなかった。この時に元瓘と改名している。長興4年(933年)に後唐の明宗より呉王に、清泰元年(934年)には呉越王に封じられている。天福2年(937年)、後唐に取って代わった後晋の高祖により呉越王に封じられている。
天福6年(941年)に火災による負傷が元で薨去、享年55。天福7年(942年)2月、龍山(現在の浙江省杭州市西湖区玉皇山)の南に埋葬された[1]。
家族
父母
妻妾
- 恭穆夫人馬氏 - 馬綽の娘
- 恭懿夫人呉氏 - 順徳王太后
- 仁恵夫人許氏
- 魯国夫人鄜氏
- 崔夫人、陳夫人、沈夫人、周夫人
- 田氏 - 田頵の娘
男子
脚注
- ^ 『呉越備史』巻3, 忠献王 天福七年条「二月癸卯、勅葬先王於龍山之南原」