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三遊亭好楽

三遊亭 好楽(さんゆうてい こうらく[2]1946年昭和21年〉8月6日[2] - )は、日本の落語家東京都豊島区出身。前名は林家九蔵[2]出囃子は『ずぼらん』[2]、あるいは五代目三遊亭圓楽、および六代目円楽と同じ『元禄花見踊』。2020年より、五代目圓楽一門会顧問を務める[3]演芸番組『笑点』(日本テレビ)の『大喜利』メンバー。

三遊亭さんゆうてい 好楽こうらく

三ツ組橘は、圓楽一門の定紋である。ただし、本人は笑点でも使用する「(八角持ちに片喰)[1]」と併用している。
本名 家入 信夫(いえいり のぶお)
生年月日 (1946-08-06) 1946年8月6日(76歳)
出身地 日本東京都豊島区
師匠 林家彦六
五代目三遊亭圓楽
弟子 三遊亭好太郎
三遊亭兼好
三遊亭好の助
三遊亭好一郎
三遊亭鯛好
三遊亭とむ
(三遊亭ぽん太)
三遊亭好好
三遊亭好志朗
三遊亭好青年
名跡 1. 林家のぶお
(1966年 - 1967年)
2. 林家九蔵
(1967年 - 1983年)
3. 三遊亭好楽
(1983年 - )
出囃子 ずぼらん
元禄花見踊
活動期間 1966年 -
配偶者 死別
家族 三遊亭王楽(息子)
所属 落語協会
(1966年 - 1983年)
大日本落語すみれ会
→落語圓楽党
→落語ベアーズ
→圓楽一門会
五代目圓楽一門会
(1983年 - )
公式サイト プロフィール
備考
五代目圓楽一門会会長(2015年 - 2020年)
五代目圓楽一門会顧問(2020年 - )

本項での落語家の高座名は、それぞれ出来事があった当時のものとする。

来歴

豊島区東池袋で、8人兄弟の6番目として生まれる[4][5]。6歳の時に警察官であった父親が40代で急死したのちは母親の手で育てられる[5]。幼少時代は、いわゆる「面倒見のいいガキ大将」だった[5]。日頃は厳しいものの、家事一切を済ませ子供を寝かしつけた後、ラジオで落語を聴いて楽しんでいる母親の姿を見て、落語に興味を持つようになる[4][5]京華商業高等学校時代は、小遣いなどをやりくりして池袋演芸場に日参していた[5]

高校卒業後の1966年4月[2]、19歳の時に八代目林家正蔵(のち彦六)に弟子入りを志願するも、その時は「私は来月70歳になるから」と弟子入りを断られた[2]。しかし、4回目の願い出でようやく「死んだ息子と同じ名前だから」と入門を許可され、「林家のぶお」名義で前座、1年後に「九蔵」の名をもらう[2]

1971年11月に三遊亭歌司、(金原亭駒三郎)、橘家竹蔵柳家さん八三遊亭歌橘三遊亭楽松、(三遊亭朝治)と共に二つ目に昇進[2]1979年より、日本テレビ系列の『笑点』の大喜利メンバーに加入[2][6]

1981年9月に柳家さん八柳家小袁治十代目土橋亭里う馬と共に林家九蔵で真打に昇進する[2]。それから間もない1982年1月29日に師匠・彦六[注釈 1]が死去。それから約1年後の1983年4月、五代目三遊亭圓楽門下に移籍して「三遊亭好楽」に改名[2][7]。同時に落語協会から大日本落語すみれ会(→五代目円楽一門会)へ移籍する。移籍後、「古典落語をしっかり修業」すべく、『笑点』を1983年10月9日放送分を最後に一時降板[8]。それから約4年半後の1988年4月3日放送分から、降板した(七代目桂才賀)に代わって『笑点』に復帰する[9]

2010年、初の落語集CD『三遊亭好楽 落語集 好日楽語(よきひにらくご)』をリリース[10]2012年、自身の半生を振り返る「好楽日和。」を晶文社から上梓[11]2013年には自らの高座や若手(主に好楽の弟子)の育成を目的に、自宅を新築して寄席「池之端しのぶ亭」をオープンさせた(後述)[2]。2015年から2020年まで円楽一門会の会長を務めた[2]。2016年から2017年にかけては、自身の芸歴50周年を祝う「好楽ちゃん祭り ~芸歴50周年&古希記念落語会~」を、王楽のプロデュースで開催した[2]

2022年、文化庁長官表彰[12]

落語協会から移籍して以降は、寄席での定席興行[注釈 2]には弟弟子にあたる6代目円楽が客員として所属していた落語芸術協会の興行[注釈 3]などにゲストとして出演したことはあったが、2023年2月の落語協会・浅草演芸ホール中席昼の部(主任:六代目春風亭柳朝)の出演者に顔付けされた。落語協会定席興行への出演は圓楽一門会への移籍以来40年ぶりとなる。この興行は好楽のかつての兄弟子(彦六門下)に当たる五代目春風亭柳朝の三十三回忌追善興行と銘打たれており、柳朝の弟子である春風亭小朝が好楽の出演を提案、他流所属であるが特例として落語協会の承認を得ての出演となる[13][14]

芸歴

人物

弟子入り

元々、5代目圓楽の惣領弟子になることを希望していた時期があったが、新聞で楽松(現:三遊亭鳳楽)が惣領として弟子入りしたことを知り考え直したあと、2代前の圓楽だった、当時の8代目正蔵(後の林家彦六)が口演する「鰍沢」をラジオで聴いて感動し、その翌日に正蔵に弟子入りを志願することにした[5][15]。来歴の通り、正蔵への弟子入りの際に初めの3回は断られているが、4回目に志願した際に正蔵から名前を聞かれ、「信夫」であることを明かすと、「"のぶお"が帰ってきたんだね」ということでようやく入門を許可された[2]。正蔵の長男である岡本信男は17歳になった1945年8月7日に勤労動員先の豊川海軍工廠空襲に遭い、辛くも東京に帰ってきたもののをやられており、終戦後間もなく亡くなった[16]。このことから、正蔵は信夫に亡くなった信男を重ね合わせて、よくかわいがったという[4]。「九蔵」の名前は、好楽の説明では「正蔵の9番弟子」という意味ではなく、「もう弟子は取らない」という止めの意味[2]。ただし、正蔵自身はこの当時、自身の弟子の数を三遊亭市馬(岸正次郎)から勘定しており、「(岸正次郎から数えて)9番目の弟子だから「九蔵」」という認識だった[17][注釈 4]。正蔵曰く、「九蔵」は「役者と同じ名前」とのこと[17]。(好楽説をとると)「もう弟子は取らない」はずだった正蔵はその後、(林家上蔵(のち三代目桂藤兵衛))、林家よし蔵(のち時蔵)林家茂蔵(のち林家正雀)と、3人の弟子をとっている[2]

九蔵時代

1971年11月に二つ目に昇進。昇進前、九蔵には後に妻となる女性と交際していたが、このことに関しては「結婚は真打になってから」という不文律の手前から師匠の正蔵には黙っていた[2]。しかし、正蔵に「お前、女ができたね」と言い当てられた[2]。結婚式まで1か月を切っていた時期だったが、九蔵が「はい」と答えると怒られるどころか「前座で祝言挙げるんじゃ格好がつくめぇ」と言われて二つ目に昇進させてもらうこととなった[18]。九蔵を二つ目にするためには(香盤)上他に10人も二つ目に昇進させる必要があったが、無事昇進した[18][19]。妻の父は5代目柳家小さんの贔屓筋だった[18]。最晩年の彦六が体調を崩し入院すると、よく妻を連れて看病に来ており、この際、しばしば彦六の手を取って「師匠!」ときめるゆえ、たまりかねた彦六が目を見開き、「そうまい日泣かれちゃ、オレは死ななきゃなんねェ!」と言ったエピソードもある[20]

1982年1月29日、この日は夜に、本牧亭で九蔵主宰の一門会があった[21][22]。この日の彦六の容体は比較的よく、一門のほとんどが彦六の見舞いをした後一門会に向かった[21][22]。そしてその夜に彦六は容体が急変し、86年の生涯を終えた[22][23]

好楽本人曰く、彦六からは23回も破門されたというが[2][5][24]、いつもしばらくすると済し崩し的に復帰が認められていた[25]

九蔵時代の愛称は九(きゅう)ちゃん、九(きゅう)坊であり、好楽に改名後も兄弟子の木久扇は九ちゃんと呼んでおり、好楽の妻も死去するまで九ちゃんと呼んでいた。

圓楽門下へ

彦六没後1年を経て、5代目圓楽門下に移ることとなるが、圓楽一門会は落語協会分裂騒動の末に東京の寄席[注釈 5]から締め出されており、このことから周囲からは「バカだね。大企業を飛び出して、中小企業に行くなんて」と言われたこともあった。しかし、圓楽が好きだったことに加えて「落語はどこでも勉強できる」という信念を持っていたため、移籍を決断した[2]

5代目圓楽の弟子としては香盤順は鳳楽に続く2番弟子となっているが、直弟子ではなく移籍組であり、自身と同じ移籍組の3番弟子の圓橘や4番弟子で直弟子では鳳楽の次である6代目円楽より5代目圓楽一門入りは後である。また、彦六門下で落語協会在籍時に真打に昇進したため、円楽一門会で真打に昇進した圓橘と6代目円楽の方が先に真打に昇進している。

圓楽からは、「酒を飲んでもいいから勉強しなさい」「米屋や酒屋は、お米やお酒を売る。落語家は“噺”で食べていく。人間は誰でも言葉をしゃべれるんだ。その言葉を生業にするなんてふてえ商売だ。だから勉強しなきゃダメだよ」と、よく言われたという[2]

その他

競馬ファンとしても知られており、報知新聞に予想記事を掲載していたが全く当たらず、程なくして掲載終了となった[26]。2022年、文化庁長官表彰を記念して好楽のために弟子一同が命名権を購入、2023年3月3日の名古屋競馬第2レースが「三遊亭好楽文化庁長官表彰記念杯」として開催された[27]

2004年、57歳で自動車の運転免許を取得した。

大喜利メンバーとして

  • 先述通り1979年9月9日放送分よりメンバーに加入し、1983年10月9日放送分をもって古典落語の修業に専念するため一旦降板。しかし桂才賀が降板した翌週の1988年4月3日放送分よりその後任で番組に復帰している。好楽(当時・九蔵)を笑点に誘ったのは、後に師匠となる5代目三遊亭圓楽である。『笑点』40周年を記念して発売したオフィシャル本では、『笑点』の前身番組『金曜夜席』のファンだったことから、いずれは『笑点』に出演したいと勝手に思い込んでいたと語っている。
  • 番組ではピンク色の色紋付を着用している。大正製薬の便秘薬『コーラック』と『好楽(コウラク)』の語呂が似ていることから、製品のキャッチフレーズ「ピンクの小粒コーラック」をもじり、「ピンクの小粒好楽(コウラク)』と称されることもしばしばある[28]。但し、1980年11月から1983年10月の一時降板までは水色の紋付を着用していた[注釈 6]。当初は『笑点』以外ではピンクの紋付を着ず、日本テレビの社長や自身のマネージャーからの指示でピンク色の着物を作っても1年ほど頑なに着ようとしなかったが、東日本大震災の被災地である陸前高田小学校に行ったときに小学生たちが「ピンクの好楽さんが来た!」と喜んでくれたため、以来『笑点』以外でもピンクの紋付を着るようになった[29][30]
  • 復帰した当初は司会席のすぐ隣の1枠に座っていたが、自身の師匠でもある当時の司会者5代目圓楽への遠慮が見られたため、スタッフの意向により1992年4月に当時2枠だった小遊三と席を入れ替えた[31]。その後、大喜利における既存メンバーの席替えは、2022年1月に桂宮治が加入するまで30年間行われなかった[注釈 7]。また、小遊三との席入れ替えによって長年3枠に座る林家木久扇と兄弟弟子同士で並ぶこととなり、2022年の宮治加入に伴う席替えでも木久扇が4枠、好楽が5枠となったため、席替え後も前後の入れ替えはあったが木久扇とは引き続き隣同士となっている。
  • 九蔵時代は木久扇(当時・木久蔵)の弟弟子として「与太郎その2」的な役割で若く元気な印象が強かったが、5代目圓楽一門への移籍を機にかつての6代目三遊亭円窓のような落ち着いたキャラクターに転換し、メンバーの中で一歩引いたポジションに収まっており、冒頭の挨拶は自作の川柳を詠んで締めるのが恒例だった。
  • 桂歌丸司会就任後は「仕事がない(または「スケジュール帳が真っ白」、「暇」)」、「歌が上手に歌えない」、「貧乏(お金がない)」、「ケチ(勘定の値引き交渉をする)」、「落語がうろ覚え」、「弟子や後輩に追い抜かれる(弟子に破門される)」、「答えが滑る」、などといった、やや情けないキャラクター性を打ち出している。
    • 「仕事がない」に関しては、特に6代目円楽がからかい半分で言うことが多いが、自虐で使用することがある。
    • 「歌が上手に歌えない」は往年のヒット曲を歌おうとするが、歌詞が出てこず「ラララ…」でごまかすというパターンの回答であり、隣席だった小遊三から突っ込まれたり、座布団を没収されることもしばしばある。
    • 歌丸が司会だった頃は「次期司会者は自分」などと、野心見え見えの回答をして大量没収されることもあった。
    • 6代目円楽を中心に、メンバーからは「プロなのに素人落語コンクールに出場」「眠たくなるのは木久扇と好楽の落語」などと貶されることが多い。
  • 6代目三遊亭円楽(旧名・楽太郎)とは、円楽襲名争いをしているという笑点でのネタが存在するが、この中で、好楽が白円楽などと呼ばれることがある。これは楽太郎が6代目円楽を襲名する以前より、腹黒キャラで黒円楽と呼ばれていたことに対をなすことや、歌丸罵倒をした6代目円楽(楽太郎)を悪いやつだと非難する善人キャラで白である、好楽自身が暇でスケジュール帳が真っ白、という意味も含まれている。
  • 三遊亭小遊三を筆頭に、他メンバーからネタにされると「よせよ!」と返すことが多い。現在はその「よせよ!」が半ばトレードマークになっており、満を持して「よせよ!」を言うこともある。2017年の一時期は金の無心をしたのち、「ダメかー!」という嘆くような台詞を放つことが多かった。
  • 自身に関するネタ以外でも、他のメンバーの回答に対して鋭いツッコミを入れるケースがある。
  • 回答した後に斜になってカメラ目線を決め込む、いわゆる「どや顔」をレイザーラモンRGがモノマネのレパートリーとしている(RGの相方であるHGのコスプレが座布団10枚の賞品になったことがあり、好楽が獲得している)。昇太司会後は顔と目線をやや斜め上にあげる仕草が追加された(新真打披露口上でもこの動作をしている)。
  • 2014年11月16日放送の『笑点』(日本テレビ)第2440回で座布団10枚を獲得した際、日本テレビ放送網株式会社の小杉善信取締役専務執行役員から、家族、弟子といった一門をも対象者に含む、限度額無制限で有効期限が「死ぬまで」の「日テレ社員食堂利用カード」が贈呈された。この収録の翌日には、このカードを持って息子で弟弟子でもある王楽を含む家族や一門弟子(孫弟子を含む)の合計30名で日テレの社員食堂へ食事に出かけたことが、翌週の『笑点』第2441回の大喜利の前に放送された。このカードはあくまでも番組のネタであり、カードと言っても横1mほどの巨大なレプリカ風の物で、それ以降は日テレが保管しているためカードの使用はその1回のみ(持参しないと無効)だった。
  • 一度だけ、当時司会の5代目圓楽から破門を宣告された事がある。ある日『笑点』の収録前の楽屋にて、「大喜利」での好楽の挨拶を聞いた圓楽が激怒して猛批判[注釈 8]し、「今すぐ(落語家を)辞めちまえ!」と叫んだ。好楽は荷物をまとめて楽屋を飛び出し、心配したスタッフが廊下で落ち込んでいた好楽を見つけて楽屋に戻るよう励ましたが、好楽はいじけて戻ろうとしなかった。この一連の遣り取りを見かねた歌丸が自分の顔に免じて好楽を許してあげるように圓楽を説得し、圓楽も少し考えた末好楽を呼んでくるように指示。好楽は楽屋に戻って圓楽に謝罪。しかし、圓楽は「おまえが頭を下げるのは俺じゃない。歌さんにだ。お前は幸せ者だよ」と言い、和解した。それから2人は何事も無かったかのように「大喜利」の収録に臨んだ[32]
  • ギャンブル好きのギャンブラーキャラであり、大型連休などで子供を旅行に連れて行くや家族旅行に行くという出題がされると、高確率で競馬場など公営競技場に行くという回答が出る。
  • 貧乏キャラに関しては「お悔やみやご祝儀の額が少ない」、「スーパーやデパ地下では半額のお総菜や弁当を買う」、「飲み屋で伝票を他にまわす」、「他人のお通夜にもぐり込んで寿司とお酒をご馳走になる」、「(使用料支払が滞り)ガス、電気、水道が止まる」、「酒は最後の一滴まで飲む」等如何にも貧乏キャラらしい回答を繰り出す。
  • これに派生して6代目円楽からは好楽自身だけではなく「好楽一門がお年玉をもらいに来た」などと一門弟子までもまとめてネタにされていた。

家族

兄は機動隊員で、あさま山荘事件の現場に立ち会っていた[33]

息子は落語家の三遊亭王楽で、父親の師匠である5代目圓楽に入門し、圓楽にとっては最後の弟子となった。このため、好楽とは兄弟弟子の関係であるが王楽自身は好楽一門の落語会に出演することも多い[34]。 このほか、王楽と好楽門下のマネージャーを務める長女[35]雑司が谷たい焼き屋を開いている次女[36][37]がいる(いずれも王楽の姉)。なお、彦六は好楽の3人の子の名付け親となっている[38]。また、1981年5月に放送のNHK『お笑いオンステージ』の「減点ファミリー」のコーナーで子供3人と出演したことがある。

また、自身の惣領弟子でもある三遊亭好太郎とは母方の遠縁の親戚であり、関係性としては(いとこ違い)にあたる[39]

前座時代に結婚した妻のとみ子が、2020年4月13日に大腸がんにより死去(72歳没)。家族以外には一切非公表にして闘病を続け、遺言により一部関係者以外には訃報が伏せられていた。訃報を公表したのは2020年11月、CD「熱燗二本」のレコーディングの取材時である[40]。その後、2021年7月14日の「徹子の部屋」出演時に、亡き妻への思いを語った[41]

池之端しのぶ亭

  • 2013年1月2日に開場[24][5][42]。こけら落としでは好楽が「一眼国」を、王楽が「ん廻し」と「牛ほめ」を演じたが[42]、奇しくも「一眼国」は、彦六が生涯最後に演じた演目でもある[注釈 9]
  • 東京メトロ千代田線根津駅が至近。
  • 新築した3階建自宅ビルの1階の手前を大広間、奥を寄席として設計して営業している[43]
  • 客席部分はフローリング敷きで、客は座布団の上に座る(足腰の弱い人には椅子の貸し出しも行う)。収容人数は40人から50人と寄席としては狭いが、マイク無しで落語が聞ける[44]。好楽自身は広さについて「地声の方が芯からお客さまに伝えることができる」「これくらいの広さであれば、噺家は客席の最後列に座るお客さんの表情まではっきりと見ることができ、勉強になる」としている[24]
  • 高座の右後方は、楽屋との往来となっている[42]。往来には、開場当初は普通の柄の暖簾がかかっていたが[42]、2014年以降では後援会から贈られた、彦六一門の定紋「光琳の蔭蔦」と圓楽一門の定紋「三ツ組橘」、「池之端しのぶ亭」の字に『笑点』で使用の「隅切り鉄砲角にかたばみ」の紋が染め抜かれた暖簾がかかっている[43][45]。楽屋には、彦六の写真が飾られている[2]
  • 一門や若手のほか、笑福亭鶴瓶などの大物や[2][注釈 10]、ラジオパーソナリティーの小池可奈なども高座に上がっている[45]
  • 大喜利内ではメンバー(特に6代目円楽)から、師匠・5代目圓楽が開設した寄席「若竹」の末路になぞらえて、「潰れた」「解体工事中」「あれは落語をやる場所ではない」などとネタにされることも多々ある。また、「マンツーマンで落語が聞ける(客が入らないという意味)」とも茶化されている。
  • 貸席であるが、あくまで好楽邸の一角であり、新年会の会場に使うこともある[46]。WEBサイトはなく、運営スケジュールなども公開していない。

TVなどの出演歴

  • 笑点』(日テレ系列、レギュラー出演)
  • 『電話バラエティー何でもリクエスト』(東海ラジオ、レギュラー出演)
  • 『(ドロ刑 -警視庁捜査三課-)』(2018年、日本テレビ) ‐ 東村洋介(白昼のコウモリ)

CM

  • サザエ食品「十勝おはぎ」(北海道ローカル)
  • としまえん「木馬の会」
  • 東京新聞
  • パチンコ「ダイエー」(新潟ローカル)
  • 御菓子城加賀藩「名物加賀福」(北陸地区ローカル)
  • 天神屋(静岡ローカル)
  • 松下電工「あかりごっこ」
  • ニコン ピカイチ(中原理恵と共演)
  • 野村證券「株券電子化篇」「株券預けて安心篇」
  • 日本薬師堂「グルコンEX」
  • 東京メトロ「Find my Tokyo」「雑司が谷・ひと工夫が散りばめられた街篇」(石原さとみと共演、次女の経営するたい焼き屋も登場)

ソフト

CD

著書

  • 好楽日和。(2012年11月、晶文社ISBN (9784794967909)
  • いまだから語りたい 昭和の落語家楽屋話(2021年12月、河出書房新社ISBN (9784309291802)

一門弟子

真打

二ツ目

廃業

  • 三遊亭なな好
  • 三遊亭ろこう

系図

真打は太字、前座は小文字。

三遊亭好楽
 
三遊亭好太郎
 
三遊亭らっ好
 
 
 
 
 
 
 
 
三遊亭兼好
 
三遊亭兼太郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三遊亭好二郎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三遊亭兼矢
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
三遊亭けろよん
 
 
 
 
 
 
三遊亭好の助
 
 
 
 
 
 
三遊亭好一郎
 
 
 
 
 
 
三遊亭鯛好
 
 
 
 
 
 
三遊亭とむ
 
 
 
 
 
 
三遊亭ぽん太
 
 
 
 
 
 
三遊亭好好
 
 
 
 
 
 
三遊亭好志朗
 
 
 
 
 
 
三遊亭好青年
 

脚注

[脚注の使い方]

注釈

  1. ^ 1950年より海老名家から借用していた正蔵の名を、初代林家三平没後8日後の1980年9月28日に海老名家に返上、同年の鈴本演芸場12月中席が正蔵として最後の高座、翌1981年1月の鈴本の下席から彦六を襲名した。(#正蔵一代 pp. 212-216、#彦六覚え帖 p. 14)
  2. ^ 江戸落語の狭義の寄席は鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の4か所。円楽一門会は離脱の経緯から、余一会などの例外を除けば、基本的に4場には出演できない(落語協会分裂騒動も参照)。好楽の円楽一門会への移籍前(九蔵時代)は4場の定席にも出演していた。
  3. ^ 好楽・6代目円楽以外の例では特に2018年以降、新宿末広亭において王楽、兼好、萬橘の3名が交互枠でほぼ常時出演している他、朝橘、好の助などの若手真打がそこへの代演・あるいは真打披露興行のゲストとして盛んに出演している。
  4. ^ (岸正二郎)、5代目春風亭柳朝林家小正楽林家勢蔵、(林家枝二)、林家木久蔵林家時蔵林家あとむ九蔵(名前、高座名はおおむね1967年当時。#正蔵一代 pp. 234-241、#彦六覚え帖 p. 62)
  5. ^ 鈴本演芸場新宿末廣亭池袋演芸場浅草演芸ホール
  6. ^ これは、(小圓遊) が急逝後に加入した古今亭朝次(現:桂才賀)にピンク色の色紋付を譲り、自身が小圓遊が着用していた水色の紋付を引き継ぐこととなったためである(但し、小圓遊が着用していたものとは色合いが若干異なる)。この水色の紋付は好楽が一旦降板した後に加入した小遊三が引き継ぎ、朝次(才賀)が降板した1988年に自身が復帰したことに伴い、再びピンク色の紋付を着用することとなった。
  7. ^ 小遊三と好楽の席入れ替え以降、メンバー入れ替えの際も前任者の席に新メンバーがそのまま座るという流れになっており、新メンバーが加入してもそれ以外のメンバーは席替えが行われていなかった。2022年に新メンバー宮治の加入により小遊三以外の既存メンバーの席替えが30年振りに行われた。但し、特殊な例として宮治加入前の2021年5月9日放送分(第2760回)にて特別に司会を務めた6代目円楽が特権で1回限りの席替えを行ったことがあり、この時好楽は4枠に座った。
  8. ^ 先代からのダメ出しについては、好楽だけでなく楽太郎(後の6代目円楽)にも行っていた。
  9. ^ 彦六は1981年11月6日の紀伊國屋寄席で「一眼国」を演じたが5、6分で終わり、翌11月7日に日本橋「たいめいけん」で開かれた彦六の落語会「壱土会」で背広姿で現れ、高座にテーブルを置いて椅子に座り、「昨日は私、紀伊国屋さんで失敗(しくじ)りました。きょうはちゃんと演(や)りますから」と述べたあと「一眼国」を演じた。それから間もない11月24日に入院し1982年1月29日に亡くなったため、結果的に11月7日に演じた「一眼国」が生涯最後の演目となった。(#彦六覚え帖 pp.15-19)
  10. ^ 開場からひと月ほど経った2013年2月6日に自ら志願して飛び入り出演し、登場人物の旦那を6代目松鶴に置き換えた「かんしゃく」を演じた。(“しのぶ亭へ、急遽あの大物が…!?”. 王楽のぽよよんブログ. 三遊亭王楽. 2017年10月17日閲覧。

出典

  1. ^ 東京かわら版編、東都寄席演芸家名鑑(2018年)
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x “”. スポーツ報知. 報知新聞社. 2017年5月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年10月15日閲覧。
  3. ^ わいわい通信 第弐百六十九号
  4. ^ a b c “「笑顔こそ噺家冥利」と語る落語家 三遊亭好楽さん(69) (2/2)”. 中外日報・ほっとインタビュー. 中外日報社. 2017年10月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h “「落語に恩返し」  落語家・三遊亭好楽さん”. 定年時代 ・東京版. 新聞編集センター. 2017年10月16日閲覧。
  6. ^ #笑点2006 p. 63
  7. ^ #笑点2006 p. 79,81
  8. ^ #笑点2006 p. 81
  9. ^ #笑点2006 p. 95
  10. ^ “天才テリー伊藤対談「三遊亭好楽」(1)「笑点」と芸歴が共に50周年です!”. アサゲイプラス. 徳間書店. 2017年10月17日閲覧。
  11. ^ 「好楽 半生振り返った一冊」2012年11月12日付読売新聞
  12. ^ 令和四年度文化庁長官表彰名簿
  13. ^ 三遊亭好楽40年ぶり落語協会の定席に出演 興行には同じ正蔵門下の林家木久扇らが出演 - 日刊スポーツ 2023年1月17日
  14. ^ 三遊亭好楽、兄弟子の柳朝追善興行で40年ぶり落語協会定席に出演 木久扇も喜ぶ…浅草演芸ホール2月中席 - スポーツ報知 2023年1月18日
  15. ^ 『好楽日和。』73ページ - 75ページ。
  16. ^ #正蔵一代 p. 242
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参考出典

  • 八代目林家正蔵『正蔵一代』青蛙房、2001年。ISBN (4-7905-0295-3)。 
  • 林家木久蔵『ぼくの人生落語だよ』ポプラ社、2004年(原著1982年)。ISBN (4-591-08233-4)。 
  • 日本テレビ(編)『笑点』日本テレビ放送網、2006年。ISBN (4-8203-9955-1)。 
  • 林家正雀『稲荷町の師匠 彦六覚え帖』うなぎ書房、2012年。ISBN (978-4-901174-30-5)。 
  • 三遊亭好楽『好楽日和。』晶文社、2012年。ISBN (9784794967909)。 

関連項目

外部リンク

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