ヴェルズ・パーネリ・ジョーンズ・レーシング (Vel's Parnelli Jones Racing) は、かつて存在していたアメリカのレーシングチーム・F1コンストラクター。
活動拠点 | カリフォルニア州トランス |
---|---|
創設者 | (パーネリ・ジョーンズ) ヴェルコ・ミレティッチ |
スタッフ | (モーリス・フィリップ) ジョン・バーナード |
ドライバー | マリオ・アンドレッティ |
参戦年度 | 1974 - 1976 |
出走回数 | 16 |
コンストラクターズ タイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 6 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
F1デビュー戦 | (1974年カナダGP) |
最終戦 | (1976年アメリカ西GP) |
概要
1963年のインディ500勝者である元レーシングドライバーの(パーネリ・ジョーンズ)と、フォードのカー・ディーラーである[1]ヴェルコ・ミレティッチ(Velco Miletich, 1925年 - 1998年[2])によって1969年に設立[3]された。本拠地はカリフォルニア州トランス[4][5]。1970年 - 1971年のインディ500でアル・アンサーが優勝、USACチャンピオンシップで(ジョー・レナード)が1971年のチャンピオンとなっている[6][7]。
1972年はアンサーとレナード、新加入したマリオ・アンドレッティの3人体制となる[8]。スポンサーはタバコのブランドである(バイスロイ)がついた。この年マシンデザイナーとして加入した元ロータスの(モーリス・フィリップ)がパーネリ初のオリジナルマシン、パーネリ・VPJ1を製作、インディ500でアンサーが2位となり、レナードがUSACチャンピオンシップで優勝3回を記録して前年に次ぐチャンピオンを獲得した[9]。
1974年はF5000にも参戦を開始し[10]、アンドレッティがシリーズ2位となった[11]。
1975年、コスワースDFVにターボチャージャーを搭載したDFXを開発した[12]。DFXは1977年から他チームにも供給が開始され、1988年にシボレー・エンジン搭載車が優勝するまで[13]、1978年[14]から1987年[15]に渡ってインディ500を制したエンジンとなった。
F1参戦
1974年のカナダGPよりF1参戦を開始。スポンサーはインディカーやF5000同様バイスロイが担当する。フィリップがデザインしたVPJ4はトーションバー・サスペンションやインボード・ディスクブレーキなどロータス・72に似ていたため、「4インチ低いロータス」との別名を持つ[1][16]。カナダGPでは7位で完走、アメリカGPでは予選1日目に最高位のタイムを記録、最終的に予選3位となった。
1975年は開幕から参戦。開幕戦のアルゼンチンGPではファイアストンのタイヤを使用していたが、ファイアストンがモータースポーツから手を引いたため[4]、次戦ブラジルGPからグッドイヤーに切り替える[17]。シーズン中にフィリップら主要スタッフがチームを離脱する事態に見舞われた[18]が、スペインGPの4位を最高として予選10位以内を4回記録、スペインGPではファステストラップを記録し、スウェーデンGPで4位、フランスGPで5位となった。しかし、ファイアストンの撤退とバイスロイがスポンサーを降りた影響で資金難に陥る。新しいスポンサー候補としてヒルトン・ホテルやロックウェル・インターナショナルと交渉するも契約には至らず[19]、翌1976年は開幕戦のブラジルGPを欠場。アンドレッティが南アフリカGPで6位に入賞したが、次戦アメリカ西GPを最後にF1から撤退した。
撤退後はインディカー・レースに専念。1975年途中からチームに加入したジョン・バーナードが手掛けたVPJ6B[5]でポコノ・ミルウォーキー・フェニックスの3戦を制した[5][20]。
インディカー・チャンピオン
インディ500優勝
F1での年度別成績
((key)) (斜体はファステストラップ)
年 | シャシー エンジン | タイヤ | ドライバー | No. | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | ポイント | WCC |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1974年 | VPJ4 フォード コスワースDFV V8 | F | (ARG) | (BRA) | (RSA) | (ESP) | (BEL) | (MON) | SWE | (NED) | (FRA) | (GBR) | (GER) | (AUT) | (ITA) | (CAN) | (USA) | 0 | NC | |||
マリオ・アンドレッティ | 55 | 7 | DSQ | |||||||||||||||||||
1975年 | VPJ4 フォード コスワースDFV V8 | F | (ARG) | BRA | (RSA) | ESP | (MON) | (BEL) | (SWE) | (NED) | (FRA) | (GBR) | (GER) | (AUT) | (ITA) | (USA) | 5 | 10位 | ||||
マリオ・アンドレッティ | 27 | Ret | 7 | 17 | Ret | Ret | 4 | 5 | 12 | 10 | Ret | Ret | Ret | |||||||||
1976年 | VPJ4B フォード コスワースDFV V8 | G | (BRA) | (RSA) | (USW) | (ESP) | (BEL) | (MON) | (SWE) | (FRA) | GBR | GER | (AUT) | (NED) | ITA | (CAN) | (USA) | JPN | 1 | 13位 | ||
マリオ・アンドレッティ | 27 | 6 | Ret |
- DSQは失格。
F1非選手権
(key)
年 | シャシー | エンジン | ドライバー | 1 | 2 | 3 |
---|---|---|---|---|---|---|
1975 | パーネリ・VPJ4 | フォード コスワースDFV 3.0 V8 | (ROC) | (INT) | (SUI) | |
マリオ・アンドレッティ | 3 |
脚注
- ^ a b 『AUTO SPORT YEAR '75』 三栄書房、1975年、58頁。
- ^ “Velco Miletich”. OldRacingCars.com. 2014年12月24日閲覧。
- ^ “Parnelli Profile”. Grandprix.com. 2014年12月24日閲覧。
- ^ a b 『オートスポーツ』 1975. 12/1号、43頁。
- ^ a b c アラン・ヘンリー著・守部信之訳 『F1マシン デザイン&テクノロジー』 CBSソニー出版、1990年、203頁。
- ^ “Indy 500 and USAC racing 1971”. OldRacingCars.com. 2014年12月24日閲覧。
- ^ “USAC National Championship 1971”. Driver Database. 2014年12月24日閲覧。
- ^ “Indy 500 and USAC racing 1972”. OldRacingCars.com. 2014年12月24日閲覧。
- ^ “USAC National Championship 1972”. Driver Database. 2014年12月24日閲覧。
- ^ 『オートスポーツ』 1975. 3/1号、82頁。
- ^ “1974 SCCA/USAC Formula 5000 Championship Review (Part 1)” (PDF). My Formula 5000. 2014年12月24日閲覧。
- ^ 檜垣和夫 『インディー500』 二玄社、1994年、142頁。
- ^ 檜垣、173頁。
- ^ 檜垣、152頁。
- ^ 檜垣、193頁。
- ^ 『AUTO SPORTS YEAR '75/'76』 三栄書房、1976年、62頁。
- ^ 林信次 『F1全史 1971 - 1975』 ニューズ出版、1993年、108頁。
- ^ 『AUTO SPORT YEAR '75/'76』、34頁。
- ^ 『オートスポーツ』 1976. 3/1号、36頁。
- ^ 檜垣、144頁。
関連項目
- F1コンストラクターの一覧
- ペンスキー・レーシング - 同じく1974年カナダGPにF1デビューしたアメリカのレーシングチーム