御室撮影所(おむろさつえいじょ)は、かつて存在した日本の映画スタジオである[1][2]。1925年(大正14年)6月に牧野省三が設立したマキノ・プロダクションの生産拠点として開所、以来、同社の解散後も、大衆文芸映画社、正映マキノキネマ、宝塚キネマ興行、エトナ映画社、極東映画がそれぞれの撮影所として使用した[1]。マキノ・プロダクション解散後の時期によって、正映マキノ撮影所(しょうえいマキノさつえいじょ)、宝塚キネマ撮影所(たからづかキネマさつえいじょ)、エトナ映画京都撮影所(エトナえいがきょうとさつえいじょ)と正式名称を変更している[1]。略称は御室(おむろ)、あるいはその所在地から天授ヶ丘(てんじゅがおか)[1][2]。
略歴
- 1925年6月 - 牧野省三がマキノ・プロダクション設立、御室撮影所開所(当初ステージ・俳優部屋・衣裳部屋・事務棟の簡易スタジオ)
- 1927年5月 - 同社の拡大にともない名古屋市内に中部撮影所(所長マキノ正博)開所[2]
- 1928年3月 - 河合広始・田中十三が同社を退社、(双ヶ丘撮影所)を設立[3]、同年4月、片岡千恵蔵、嵐長三郎(のちの嵐寛壽郎)らスターの退社相次ぐ
- 1929年7月25日 - 牧野省三死去
- 同年9月 - 小笹正人を所長、マキノ正博を撮影部長(現在の製作部長)に新体制発表
- 1931年4月 - 同プロダクション、製作停止
- 1932年2月 - 高村正次・立花良介がマキノ本家と提携して正映マキノキネマ設立、(牧野知世子)を所長に正映マキノ撮影所とするも原因不明の出火でステージ全焼
- 同年4月 - バラックでステージを再建して3作を製作したのち、正映マキノキネマ解散
- 同年7月 - 大衆文芸映画社活動停止
- 同年11月 - 高村正次・(南喜三郎)が宝塚キネマ興行設立、宝塚キネマ撮影所となる
- 1934年2月 - 宝塚キネマ興行解散
- 1935年2月 - 鉄筋ステージ新築(300坪)、同年4月、ダークステージ新築にそれぞれ着手[4]
データ
名称の変遷
概要
マキノ・プロダクション
1925年(大正14年)3月、東亜キネマの(等持院撮影所)が火事になりグラスステージ1棟が全焼し、同年4月には直木三十三(のちの直木三十五)・立花寛一(のちの根岸寛一)による聯合映画芸術家協会に協力したことで、かねてから険悪であった東亜キネマとの仲が決定的となり、同撮影所の所長・牧野省三は、同年5月、同社を退社して新たにマキノ・プロダクションを設立、花園村天授ヶ丘に御室撮影所の建設を開始する[1][2][6]。もともと牧野自身が創業した等持院撮影所は、東亜キネマ京都撮影所となり、東亜の親会社・八千代生命保険の小笹正人が所長に就任した[6]。
同年6月、近隣の小学校の改築で生じた廃材を利用して急造したステージで撮影を開始する[1][2]。設立第1作は岡本綺堂原作の『白虎隊』(監督勝見正義)、寿々喜多呂九平オリジナル脚本による『(或る日の仇討)』(監督井上金太郎)であり、同2作は、同年8月28日、浅草公園六区の大東京を皮切りに全国公開された[7][8][9]。開設当時は、ステージ・俳優部屋・衣裳部屋・事務棟の簡易スタジオであった[1]。
その後、マキノ・プロダクションの全盛期を経て、経営難に陥り、1931年(昭和6年)4月には、製作を停止する[1]。同年4月24日に新宿劇場を皮切りに全国公開された『(京小唄柳さくら)』(監督金森萬象)が、同社の同撮影所での最後の作品となった[10]。同年5月、新会社・新マキノ映画を設立するが、製作再開のないまま、同年10月には解散した[1][2]。
正映マキノ・宝塚キネマ
マキノ・プロダクションの新社としての新マキノ映画が解散した1931年(昭和6年)10月、牧野省三の長女・(牧野冨榮)の夫である高村正次が、直木三十五らの協力を受けて大衆文芸映画社を設立する[1]。新興キネマと配給提携をとりつけ、直木の原作による『(日の丸若衆)』(監督(後藤岱山))を製作、同年12月24日に公開されている[10][11]。
1932年(昭和7年)2月、大衆文芸映画社を経営する高村正次、および新興キネマ常務取締役であった立花良介が、マキノ本家と提携して正映マキノキネマを設立、故牧野省三の妻・(牧野知世子)を所長に据え、御室撮影所を正映マキノ撮影所と改称して、マキノ・プロダクションの製作停止以来、約1年ほどのブランクを経て再稼働する[1]。同月、同撮影所は、原因不明の出火でステージを全焼する[1]。バラックのステージを急造し、『(二番手赤穂浪士)』(監督マキノ正博)等の3作を製作したが、配給網が確立できず、資金繰り困難に陥り、同年4月には解散した[1]。同作の配給権は日活に売却し、その売り上げを従業員への解散手当とした[1]。同作は、同年4月8日に公開されている[12]。
半年のブランクを経た同年11月、高村正次は落日の東亜キネマを買収、同社の製作会社であった東活映画社の社長を辞任した(南喜三郎)とともに、宝塚キネマ興行を設立、御室撮影所を宝塚キネマ撮影所と改称して、映画製作を開始する[1]。設立第1作は、東活映画から移籍した(堀江大生)を監督に『(敵討愛慾行)』を製作、同年12月15日、独自の興行網で公開した[13]。1933年(昭和8年)7月、経営不振のために給料遅配が始まり、同年9月までで製作ラインが停止する[1]。『(片仮名仁義)』(監督高村正次)、『(大利根の朝霧)』(監督後藤岱山)が、翌1934年(昭和9年)1月14日に公開されたのが、同社の最後の作品となり、同年2月には解散した[1][14]。
エトナ映画社
エトナ映画社は、当初、島津製作所の新しいトーキーシステムを使用する映画会社として、(田中伊助)が1934年(昭和9年)7月に設立、『(神崎東下り)』(監督後藤岱山)を片岡千恵蔵プロダクションの嵯峨野撮影所を使用して製作、同年8月1日に公開したところから始まり、同年12月に高津小道具店(現在の高津商会)の(高津梅次郎)が所有していた御室撮影所約3,500坪(約11,570.2平方メートル)を買収、同年12月21日付で登記を移転し、エトナ映画社の撮影所となった[4]。御室撮影所は、エトナ映画京都撮影所と改名し、翌1935年(昭和10年)1月から本格的に稼働を開始した[4]。所長には、田中伊助の実弟、田中聖峰が就任した[4]。即座に使用可能なのは事務棟のみであったため、同年2月、鉄筋ステージ新築、同年4月、ダークステージ新築にそれぞれ着手したが、同年5月、同社は20万円(当時)の欠損を抱えて、解散した[1][4]。
極東映画
1935年(昭和10年)2月に設立された極東映画は、当初撮影所を持たず、エトナ映画京都撮影所をレンタル使用し、第1作『(益満休之助 比叡の巻)』(監督仁科熊彦)を製作、同作は、同年3月20日に公開された[15]。同社は、同作の続篇『(益満休之助 江戸の巻)』『(益満休之助 完結篇)』(いずれも監督下村健二)[16][17]を製作し、同年4月29日、兵庫県西宮市甲陽園にある甲陽撮影所に製作拠点を移し、エトナ映画京都撮影所(極東映画御室撮影所)からは撤退した。
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 御室撮影所、立命館大学、2013年6月19日閲覧。
- ^ a b c d e f マキノ映画活動史、立命館大学、2013年6月19日閲覧。
- ^ 双ヶ丘撮影所、立命館大学、2013年6月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n エトナ映画の軌跡[]、立命館大学、2013年6月19日閲覧。
- ^ a b File:Makino Omuro Feb 1931.jpg、マキノ・プロダクション、2013年6月19日閲覧。
- ^ a b 等持院撮影所、立命館大学、2013年6月19日閲覧。
- ^ 1925年 公開作品一覧 517作品、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 白虎隊、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 或る日の仇討、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ a b 1931年 公開作品一覧 591作品、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 日の丸若衆、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 二番手赤穂浪士、日活データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 敵討愛慾行、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 1934年 公開作品一覧 448作品、日本映画データベース、2013年6月19日閲覧。
- ^ 益満休之助 比叡の巻、日本映画データベース、2013年6月20日閲覧。
- ^ 益満休之助 江戸の巻、日本映画データベース、2013年6月20日閲覧。
- ^ 益満休之助 完結篇、日本映画情報システム、文化庁、2013年6月20日閲覧。
参考文献
- 『映画渡世 天の巻 - マキノ雅弘自伝』、マキノ雅裕、平凡社、1977年 / 新装版、2002年 (ISBN 4582282016)
- 『マキノプロダクション事始』、(瀬川與志)、(白川書院)、1977年9月
- 『チャンバラ王国極東』、(赤井祐男)・(円尾敏郎)、ワイズ出版、1998年 (ISBN 4948735914)
- 『京都花園天授ヶ丘 マキノ撮影所ものがたり』、並木鏡太郎、愛媛新聞メディアセンター、2003年6月 (ISBN 4860870026)
関連項目
外部リンク
- 御室撮影所、マキノ映画活動史 - 立命館大学