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甲陽撮影所

甲陽撮影所(こうようさつえいじょ、1918年 開所 - 1927年 閉鎖 / 1935年 再開 - 1937年 閉鎖)は、かつて兵庫県西宮市甲陽園に存在した映画スタジオである。甲山の南麓を(甲陽土地)が開発、甲陽キネマ東亜キネマ極東映画甲陽映画と受け継がれた。東亜キネマの時代がもっとも隆盛を極めた。

略歴・概要

1918年(大正7年)、(大正信託)の社長である本庄京三郎の経営するデヴェロッパー「甲陽土地」が、兵庫県西宮市の甲陽地区を買収し、「甲陽園」というレジャー施設を建設した。「東洋一の大公園」と銘打ち、遊園地温泉、宿泊施設、そして映画スタジオを内包する施設であった[1]。この映画スタジオが「甲陽撮影所」の始まりであり、スタジオ経営は(滝田南陽)の「甲陽キネマ」が行なった。当時のフィルモグラフィは残っていない。

1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で東京地区は壊滅、日活向島撮影所松竹蒲田撮影所は、京都への移転でしのいだが、浅草公園六区の興行場が壊滅し、「浅草オペラ」も地方巡業を余儀なくされた。国際活映の(巣鴨撮影所)や活動写真資料研究会の(吾嬬撮影所)といった小プロダクションのスタッフも俳優も、新天地を必要としていた。そこで同年12月、大阪の金融資本である八千代生命が「東亜キネマ」を設立、「甲陽キネマ撮影所」を買収し、「東亜キネマ甲陽撮影所」としてオープンした。甲陽撮影所所長には「活動写真資料研究会吾嬬撮影所」の撮影技師で東京・根岸の岩岡商会を経営していた岩岡巽、監督におなじく吾嬬撮影所の山根幹人、徳永文六こと(徳永フランク)らが設立とともに参加し、映画製作を始めた。

東亜キネマは1924年(大正13年)7月、マキノ映画製作所(等持院撮影所)を吸収合併し、等持院・甲陽の両撮影所を稼働するデュアル・プロダクション体制となり、「甲陽撮影所」の所長を等持院撮影所長の牧野省三が兼務した。また同年、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)が甲陽線を開業する。翌1925年(大正14年)6月、牧野が退社し、京都・御室マキノ・プロダクションを設立、等持院・甲陽の両撮影所は東亜キネマに残され、両撮影所長を八千代生命宣伝部長だった小笹正人が兼務した。

1927年(昭和2年)、東亜キネマは製作機構を京都撮影所(等持院撮影所)に一本化、「甲陽撮影所」を閉鎖した。甲陽の地を去った東亜キネマは、やがて親会社の八千代生命の映画事業撤退、1929年(昭和4年)3月の小笹所長の退社、阪急電鉄資本の支援を仰ぎ、1931年(昭和6年)には東活映画社が製作を代行、配給興行に専念するが、1932年(昭和7年)10月、京都撮影所も閉鎖、高村正次に買収され、「宝塚キネマ」となった。

1935年(昭和10年)、極東映画が設立され、「極東映画甲陽撮影所」とし、同撮影所での映画製作が再開される。1936年(昭和11年)の初め、極東映画が同撮影所をふたたび閉鎖、大阪にある「古市撮影所」に移転してしまう。しかしそのさいに、一部スタッフ、俳優が同地に残留、同年5月に別会社「甲陽映画」を設立、同撮影所での映画製作を続行したが、翌1937年(昭和12年)に同社は解散、「甲陽撮影所」は閉鎖された。

現在、「甲陽撮影所」の跡地には、甲陽幼稚園などが建ち、住宅地となっている。また、開発者の名を冠し、同地は「甲陽園本庄町」と命名された。

関連事項

  1. ^ 産經新聞記事「甲陽園 明るい風光が似合う」(2008年2月4日 20:38付)の記述を参照。

外部リンク

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