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ヒューストン (重巡洋艦)

艦歴
発注
起工 1928年5月1日
進水 1929年9月7日
就役 1930年6月17日
退役
その後 1942年3月1日に戦没
除籍
性能諸元
排水量 9,050 トン
全長 600 ft 3 in (182.96 m)
全幅 66 ft 1 in (20.14 m)
吃水 16 ft 4 in (4.98 m)
機関 ホワイト・フォスター式重油専焼水管缶8基

パーソンズ式ギヤード・タービン4基
4軸推進、107,000shp

最大速力 33 ノット (61 km/h)
航続距離 15ノット/13,000海里
燃料 重油 1,500トン
乗員 士官、兵員1,020-1,155名
1933年訪日時、765名[注釈 1]
兵装 20.3cm(55口径)3連装砲 3基
12.7cm(25口径)単装砲 4門
12.7mm(50口径)機銃 8挺
21インチ3連装魚雷発射管 2基
航空機 水上機4機搭載、カタパルト2基
モットー Galloping Ghost of the Java Coast (nickname)

ヒューストン (USS Houston, CL/CA-30) は、アメリカ海軍重巡洋艦[注釈 2]ノーザンプトン級重巡洋艦の5番艦[3]。 艦名はテキサス州ヒューストンに因み、その名を持つ艦としては2隻目。 艦隊旗艦設備を有し[注釈 3]、アジア艦隊旗艦(テイラー司令長官、フレッチャー参謀長)として日本を訪問、テイラー長官とヒューストン艦長が昭和天皇に拝謁したこともある[5]。 またルーズベルト大統領が度々乗艦したので、「大統領のヨット」という渾名もあった[6]

極東配備時に太平洋戦争へ突入、フィリピンからオランダ領東インドに脱出した[7]比島作戦)。1942年(昭和17年)2月にはジャワ沖海戦スラバヤ沖海戦に参加。3月1日、日本軍蘭印侵攻にともなって生起したバタビア沖海戦で沈没した[8][注釈 4]捕虜になった生存者は泰緬鉄道の建設作業を強制された(失われた大隊)。

艦歴

ヒューストンは(条約型巡洋艦)として、バージニア州ニューポート・ニューズニューポート・ニューズ造船所で建造された[注釈 5]。 1928年(昭和3年)5月1日、起工[注釈 1]。1929年(昭和4年)9月7日にエリザベス・ホルコム(当時のヒューストン市長(オスカー・ホルコム)(英語版)の娘)によって進水し、1930年(昭和5年)6月17日に CL-30 (軽巡洋艦)として艦長J・B・ゲイ大佐の指揮下就役する。ヒューストンは1931年7月1日に CA-30 (重巡洋艦)へ艦種変更された。日本海軍1万トン級巡洋艦妙高型)に魚雷兵装では劣るが、充実した航空兵装を持つ[10]

大西洋での公試後、ヒューストンは1930年10月に帰還した。その後艦名の由来となったテキサス州ヒューストンを訪問し、ハンプトン・ローズで艦隊と合流する。1931年(昭和6年)1月10日にニューヨークに向けて出航し、パナマ運河ハワイを経由し2月22日にマニラに到着した。ヒューストンは(アジア艦隊)(英語版)旗艦となり、翌年に向けて極東での訓練活動に従事した。この時点でのアジア艦隊司令長官はモンゴメリー・M・テイラー大将[11]、参謀長はフランク・J・フレッチャー大佐であった[12]

太平洋で

1932年(昭和7年)に第一次上海事変が生じると、ヒューストンは2月3日にアメリカ人の生命および財産を保護するため上海に向かう。海兵隊および海軍陸戦隊を上陸させ事態の安定化を支援する。1933年(昭和8年)1月、ウィリアム・バグレー艦長が着任した[13]。3月にフィリピン、5月に日本へ親善訪問を行っている。6月2日から9日まで横浜に寄港し、各種歓迎を受ける[14][15]。 横浜停泊中の6月5日、テイラー長官とバグレー艦長はジョセフ・グルー米国大使同伴のもとで皇居に赴き、昭和天皇に謁見した[5]。 6月10日から14日まで神戸に滞在した[16]。同年8月、フレッチャー参謀長は[12]、海軍作戦部へ栄転した[注釈 6]。 11月17日、姉妹艦オーガスタ (USS Augusta, CA-31) とアジア太平洋艦隊旗艦の任を交代する。ヒューストンは11月20日横浜港に入港、24日に出発した[17]。その後は偵察艦隊に合流するためサンフランシスコに向かい、続いて太平洋で艦隊演習および訓練に従事した。

第二次世界大戦が始まるまでの間、ヒューストンはしばしば特別の巡航を行った。1934年(昭和9年)7月1日にルーズベルト大統領メリーランド州アナポリスで乗艦し、カリブ海オレゴン州ポートランドを経由してハワイまで12,000海里の航海を行った。その巡航にはヘンリー・L・ルーズベルト海軍次官補も乗艦した。ヒューストンは1935年(昭和10年)5月15日に帰還した。

アラスカ海域での短い巡航の後に、ヒューストンはシアトルに帰還し1935年10月3日に再び大統領を乗艦させる。大統領の一行は休暇のため(セロス島)、(マグダレナ湾)(英語版)ココ島サウスカロライナ州チャールストンを巡航した。ヒューストンはまた1937年(昭和12年)5月28日にサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジ落成記念式典に参加した。1938年(昭和13年)7月14日には観閲式に参加するルーズベルト大統領を乗せサンフランシスコを訪れている。

ヒューストンは1938年9月19日に艦隊旗艦となり、(クロード・C・ブロック)(英語版)少将が座乗した。旗艦任務は12月28日まで継続し、その後偵察艦隊に復帰した。通常の訓練演習任務に就いたヒューストンは1939年(昭和14年)1月4日に演習「Fleet Problem XX」に参加しサンフランシスコからノーフォークキーウェストまで巡航を行う。キーウェストでは大統領と海軍作戦部長ウィリアム・リーヒ提督が乗艦し、演習を視察した。4月7日にテキサス州ヒューストンに到着、続いてシアトルに向かい5月30日に到着した。

オーバーホールと整調後、ヒューストンはハワイ分遣隊の旗艦に指定され、1939年(昭和14年)12月7日に真珠湾に到着した。1940年(昭和15年)2月17日に(メア・アイランド)(英語版)に帰還した。再びハワイに戻り、11月3日にフィリピンに向けて出航したが、世界情勢は悪化の途をたどっていた。ヒューストンは11月19日にマニラに到着、アジア艦隊司令官トーマス・C・ハート提督[18]の旗艦となる。

第二次世界大戦

1941年(昭和16年)中期を過ぎると戦争への危機が高まり、ハート提督は艦隊に戦闘準備を宣言した。だがアジア艦隊の最大戦力は重巡1隻(ヒューストン)で、他には旧式の軽巡マーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) 、アジア艦隊に徴用された新鋭の軽巡ボイシ (USS Boise, CL-47) 、四本煙突の旧式駆逐艦13隻、潜水艦29隻に過ぎなかった[7]

真珠湾攻撃が行われた12月7日(日本時間12月8日)の夜、ハート提督の命令によりウィリアム・A・グラスフォード少将は巡洋艦2隻(ヒューストン、ボイシ)と護衛駆逐艦を率いてフィリピン中部のパナイ島からオーストラリアダーウィンに向けて出航し[19]バリクパパンスラバヤ経由で同年12月28日に到着した[注釈 7]。偵察任務後、ヒューストンは米英蘭豪 (ABDA) 艦隊に合流する[21][注釈 8]

ヒューストンは1942年(昭和17年)2月4日のジャワ沖海戦に、オランダ海軍カレル・ドールマン少将指揮下の艦隊の一部として参加した[注釈 9]。ABDA艦隊はバリクパパンに向かう日本軍の上陸船団攻撃に出撃したものであったが、日本軍基地航空隊(一式陸上攻撃機九六式陸上攻撃機)の攻撃を受ける[26]。「ヒューストン」は(鹿屋空)の一式陸攻が投下した250キロ爆弾の直撃を受け[27]、後部の三番砲塔が稼働不能となった[28]。また、マーブルヘッドが60キロ爆弾多数を被弾して大破、ドールマン少将は日本軍輸送船団の攻撃をあきらめて反転した[27]

「ヒューストン」は2月5日にチラチャップに到着する。2月10日までそこにとどまり、それからオーストラリア大陸ダーウィンへ向かった。2月15日、ヒューストンは駆逐艦ピアリー、オーストラリアのスループ「スワン」、「Warrego」とともにアメリカ陸軍輸送船「Meigs」、アメリカ貨物船「Mauna Loa」、「Portmar」、オーストラリア船「Tulagi」を護衛してティモールへ向け出発した[29]。同日、船団は日本の飛行艇の追跡と爆撃を受けたが被害はなかった。この日は索敵を行なった日本軍東港空の大艇のうちの1機がティモール海で巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船4隻を発見後行方不明となっている[30]。翌日、日本軍機による攻撃を受け、至近弾で「Miegs」、「Mauna Loa」が損傷した[29]。この日は日本軍は東港空の大艇10機と一空の陸攻35機による攻撃を行っていて、輸送船3隻を大破させたとしている[31]。この後船団はダーウィンに引き返し、2月18日にそこに着いた。

スラバヤ沖海戦

1942年(昭和17年)2月中旬、ABDA海軍部隊の指揮官はハート提督(アメリカ海軍)から(コンラッド・ヘルフリッヒ)(英語版、オランダ語版)中将(オランダ海軍)に交代した[28]。日本軍はジャワ島占領を目的として陸軍の上陸船団部隊を派遣する[32]。その報を受けたドールマン少将(旗艦デ・ロイテル)は上陸を阻止するため、オランダ軽巡デ・ロイテル (HNLMS De Ruyter) 、オランダ軽巡ジャワ (HNLMS Java) 、ヒューストン、オーストラリア軽巡パース (HMAS Perth, D29) 、イギリス重巡エクセター (HMS Exeter, 68) 、および英駆逐艦3隻、和蘭駆逐艦3隻、米駆逐艦5隻の多国籍艦隊を率い、2月26日に出撃する[33]2月27日夕刻、多国籍艦隊は日本軍輸送船団を護衛していた第五戦隊司令官高木武雄少将が指揮する妙高型重巡洋艦2隻(那智羽黒)と、二つの水雷戦隊二水戦、(四水戦))に遭遇した(スラバヤ沖海戦[33]

米英蘭豪連合艦隊(ABDA艦隊)は奮戦したものの、航空援護の不足、多国籍艦隊ゆえの訓練不足という弱点を抱えていた[33]。両艦隊は夕方に遭遇し、17時45分に軽巡神通(二水戦司令官田中頼三少将)が砲撃を開始した。両軍は砲撃戦を開始し、18時38分、エクセターに妙高型重巡の8インチ砲弾が命中、その混乱で陣形が乱れる[34]。駆逐艦エレクトラ (HMS Electra, H27) はエクセターを援護する間に四水戦麾下の第9駆逐隊と交戦、やがて沈没した。18時45分には駆逐艦コーテニアー (HNLMS Kortenaer) に魚雷が命中して轟沈、米英蘭豪艦隊は戦場を離脱した。

両軍は夜戦に入り、22時55分に駆逐艦ジュピター (HMS Jupiter, F85) が触雷し沈没した[35]。その後エンカウンター (HMS Encounter, H10) はコーテニアーの生存者救助に当たり、エクセターと駆逐艦4隻はスラバヤへ退避した。護衛の駆逐艦が無くなったドールマン少将の艦隊は、日本軍のジャワ侵攻阻止のため巡洋艦4隻(デ・ロイテル、ジャワ、パース、ヒューストン)を率いて北へ向かう[36]

翌28日の0時33分に艦隊は再び日本艦隊と遭遇した。約20分の砲戦に続いて那智と羽黒が酸素魚雷を発射、デ・ロイテルとジャワに命中して両艦は沈没した[36]。ドールマン少将はデ・ロイテルと運命を共にしたが[35]、沈没前にパースとヒューストンに退却を命じていた[36]

バタビア沖海戦

 
アルバート・ルックス大佐
 
ジョージ・レンツ中佐

2月28日正午過ぎ、パースとヒューストンはバタヴィアのタンジョン・プリオク港に入港した[8]。パース艦長ヘクター・ウォーラー大佐が指揮する2隻(パース、ヒューストン)とオランダ海軍駆逐艦エヴァーツェン (Hr.Ms. Evertsen) はジャワ島西部とスマトラ島に位置するスンダ海峡を通過してインド洋への脱出を敢行する[注釈 10]。 だが翌日未明にバンタム湾で日本軍輸送船団(第16軍)を発見し、攻撃を決意する[38]。パースとヒューストンは日本軍輸送船団の方向に接近していったが、この時点で警戒にあたっていた駆逐艦吹雪(第11駆逐隊)に発見されており、吹雪から発射された9本の魚雷に続き、(第五水雷戦隊)(司令官原顕三郎少将)、第七戦隊の最上型重巡洋艦[注釈 11]との戦闘が始まる。両艦は多くの魚雷攻撃を受ける。

両艦は第16軍司令官今村均陸軍中将の旗艦であった特殊揚陸艦神州丸を撃沈し、他にも輸送船3隻を撃沈したとされる[39][注釈 12]。日本の駆逐艦隊はスンダ海峡を封鎖し、2隻の巡洋艦は湾に閉じこめられることとなった。ヒューストンとパースは崎山釈夫大佐(三隈艦長)が指揮する第七戦隊第2小隊(三隈最上)および駆逐艦敷波との砲雷撃戦となる。パースは23時36分に攻撃を受け、砲撃と雷撃を受けた後約1時間で沈没した。その後、ヒューストンは雷撃により航行不能となるまで単独で戦うこととなる。

この夜戦で、パースとヒューストンは駆逐艦白雪春風に命中弾を与えて若干の損害を与えた。だがパースは先に沈没し、ヒューストンは機関室に被弾して蒸気は艦内に噴出した[40]。3本の魚雷が命中し、そのうちの1本は主砲の動きを事実上止めた[40](アルバート・ルックス)(英語版)艦長は0時30分の直撃弾により戦死した。しぶとく浮いていたヒューストンではあったが、2時に駆逐艦敷波からの止めの魚雷が命中した[41]。このとき副砲等が沈黙していなかったのでヒューストンに対してサーチライトを照射して[42]機銃射撃を行った。数分後にヒューストンは横転、沈没した。1,061名の乗組員の内368名が生き残り、捕虜となった[42]。ヒューストンの生存者の殆どはタイ・ビルマ国境地帯において泰緬鉄道の建設に従事させられ、過酷な環境に因り79名(約20%)が死亡した[43][44]

その後

ヒューストンの運命はほぼ9ヶ月間不明のままであった。その真相が明らかになったのはヒューストンの生存者が捕虜収容所から解放された後のことであった。ルックス艦長はその英雄的行動により名誉勲章を受章した。ヒューストンの従軍牧師であった(ジョージ・S・レンツ)(英語版)海軍十字章を受章した。彼は第二次世界大戦で海軍十字章を受章した唯一の従軍牧師であった。

ヒューストンの乗組員はオーストラリア、メルボルン(戦没者慰霊塔 (メルボルン))(英語版)でパース乗組員と並んで祀られている。また、ヒューストン市民はヒューストンの艦名を甦らせるべく建艦債券の応募に殺到し、大勢のヒューストンの若者が海軍に志願した[45]ヒューストン (USS Houston, CL-81) は先代を讃えるべく、もともとヴィックスバーグ (Vicksbourg) の艦名で建造されていたクリーブランド級軽巡洋艦の一艦を改名して就役した。

ヒューストンは第二次世界大戦の戦功で2個の従軍星章および殊勲部隊章を受章した。

映画『戦場にかける橋』のシアーズ中佐はヒューストンに乗艦していたという設定であった。

出典

注釈

[脚注の使い方]
  1. ^ a b 米國軍艦「ヒューストン」要目[1]
    一、艦種 巡洋艦(米國第七隻華府條約八吋巡洋艦)/一、起工 昭和三年五月一日/一、竣成 昭和五年六月/一、排水量 九,〇五〇噸/一、全長 六〇〇呎、最大幅六五呎、平均吃水一七呎七吋/一、兵装 五五口徑八吋砲 九門(三砲塔) 五吋高角砲 四門 三听砲 二門 二一吋水上發射管 六門(三聯装二基) 飛行機 四基(射出機二基)/一、最大速力 三二.七節/一、乗員數 司令部 准士官以上 一七名 乗組 准士官以上 五三名 乗組 下士官兵 六九五名(約) 合計 七六五名(約)
  2. ^ 一等巡洋艦“ヒューストン Houston[2] 全要目{排水量9,050噸 速力32.7節 備砲20糎砲9門 13糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎水上)6門 起工1928年5月 竣工1930年6月 建造所ニユーポートニユース造船所}全長182.87米、幅19.81米、平均吃水5.35米。備砲は20糎9門は3聯装にして3砲塔に収め、13糎高角4門の外に3ポンド砲2門。魚雷發射管6門は3聯装として兩舷に装備す。
    同型艦“チェスター Chester 排水量9,200噸である外要目艦型共に“ヒューストン”と同一。1928年3月起工して1930年6月竣工したもの、建造はブラウンポベリ造船會社である。20糎の主砲に於ても亦魚雷發射管に於ても我が一萬噸級巡洋艦に對して劣勢であるが、米國の一萬噸級巡洋艦は特に航空兵力に意を用ひてカタパルトも一、二番煙突間に大規模のものを装備してゐるのが特に眼つく。
  3. ^ 布哇入港の重巡洋艦ヒューストン(一九三〇年六月竣工)[4] 基準排水量九〇五〇噸、時速三二.七節。カタパルト二基を有し飛行機四臺を搭載。一九二四年十二月條令の下に第廿六號艦より卅一號艦として二六・七年の間に認可されたるオーガスタ級六艦中の一隻。旗艦たるに適ひ、カタパルトの後方にまで艦首樓が延びてゐるなどの特殊の設備を有す。
  4. ^ 本艦と共に、豪州軽巡パース (HMAS Perth, D29) と和蘭駆逐艦エヴァーツェン (Hr.Ms. Evertsen) も沈没した。
  5. ^ 一等巡洋艦“ヒューストン Houston[9] 全要目{排水量9,050噸 速力32.7節 備砲20糎砲9門 12.7糎高角砲4門 魚雷發射管(53糎水上)6門 起工1928年5月 竣工1930年6月 建造所ニユーポートニユース造船所}全長182.87米、幅19.81米、平均吃水5.35米。備砲は20糎9門は3聯装にして3砲塔に収め、12.7糎高角4門の外に3ポンド砲2門。魚雷發射管6門は3聯装として兩舷に装備す。“ノーザンプトン”の同型艦。20糎の主砲に於ても亦魚雷發射管に於ても我が一萬噸級巡洋艦に對して劣勢であるが、米國の一萬噸級巡洋艦は魚雷よりも航空兵力に意を用ひてカタパルトも一、二番煙突間に大規模のものを装備してゐる。
    シカーゴ Cicagoも排水量9,300噸である外要目艦型共に“ヒューストン”と同一である。
  6. ^ 太平洋戦争開戦の第17任務部隊指揮官で、空母ヨークタウン (USS Yorktown, CV-5) に将旗を掲げていた。
  7. ^ ルソン島に残っていたハート提督は潜水艦で脱出した[20]
  8. ^ ABDA部隊の最高指揮官は英軍のウェーヴェル陸軍大将で[22][23]、ハート提督がABDA海軍部隊司令官に、和蘭海軍のカレル・ドールマン提督がABDA艦隊司令官に任命された[24]
  9. ^ 巡洋艦4隻(デ・ロイテル、トロンプ、ヒューストン、マーブルヘッド)と護衛の駆逐艦[25]
  10. ^ アメリカ駆逐艦4隻はジャワ島東部のバリ海峡を通過してオーストラリアに脱出した[36]。スラバヤを出発したエクセター部隊(エクセター、エンカウンターポープ)は3月1日の第2次ジャワ海戦で沈没した[37]
  11. ^ 第七戦隊司令官栗田健男少将直率の重巡熊野鈴谷は不在、夜戦に関与せず。
  12. ^ 実際は、日本側の酸素魚雷(おそらく最上が発射したもの)が味方輸送船団に命中した“誤射”であった。

脚注

  1. ^ #S08官房2311号 p.15
  2. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 127(原本236-237頁)一等巡洋艦ヒューストン
  3. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 56a-57ノーザンプトン級重巡洋艦/対日戦で半数が戦没したペンサコラ級の改良型
  4. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 45.
  5. ^ a b 昭和8年06月06日(火)官報第1927号。国立国会図書館デジタルコレクションコマ7(原本140)〔 宮廷録事 ◎謁見 米國亜細亜艦隊司令長官海軍大将モントゴメリー、エム、テイラー今般來航ニ付敬意ヲ表スルタメ同艦隊旗艦「ヒューストン」艦長海軍大佐ダブルュー、バッガレー外一命ヲ從ヘ本邦駐箚全權大使ジョセフ、クラーク、グルー同伴同大使館附海軍武官海軍大佐アイザック、シー、ジョンソント共ニ昨五日午前十時三十分 天皇陛下ニ謁見仰付ケラレタリ 〕
  6. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 59.
  7. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 27–31連合軍の退却始まる
  8. ^ a b ニミッツ 1962, pp. 39a-40ジャヴァから退却
  9. ^ ポケット海軍年鑑 1937, p. 110(原本202-203頁)一等巡洋艦ヒューストン
  10. ^ ポケット海軍年鑑 1935, p. 133(原本248-249頁)一等巡洋艦ヒューストンの中部
  11. ^ #S08官房2311号 p.16(主要職員略歴、米國亜細亜艦隊司令長官テイラー大将)
  12. ^ a b #S08官房2311号 p.18〔 主要職員略歴、米國亜細亜艦隊参謀長フレッチャー大佐 Captain fletcher(Frank Jack)U.S.N/明治十八年四月二十九日 「アイオワ」州ニ生ル/明治三十五年九月二十六日 同州ヨリ海軍ニ入ル/昭和五年六月五日 海軍大佐 海軍大學校教官、コルラト副長等ヲ經テ昭和六年八月現職ニ補セラル 〕
  13. ^ #S08官房2311号 p.17(経歴、ヒューストン艦長バガレー大佐)
  14. ^ #S08官房2311号 p.7(横鎮電話)、同資料 pp.13-14(米國亜細亜艦隊旗艦ヒューストン東京方面交歡豫定 B案(昭和八、五、二六略定) )
  15. ^ 「昭和8年 海軍公報 上巻(防衛省防衛研究所)6月(1)、海軍公報第1890号 昭和8年6月2日 」 アジア歴史資料センター Ref.C12070337200  p.10〔 ○艦船所在 ○六月二日午前十時調【横須賀】日進▲、山城、春日、比叡、(旗艦)金剛、(旗艦)榛名、(旗艦)鳳翔、(旗艦)鳥海、愛宕、高雄、摩耶
    欅、(司令)汐風、峯風、灘風、夕風、(司令)沖風、澤風、峯風、矢風、(司令)潮▲、朧、曙▲、(司令)天霧、朝霧、夕霧
    富士▲、尻矢、洲埼、鳴門/【浦賀】(子日)(以下略) 〕
  16. ^ #S08官房2311号 p.8(昭和8年6月10日)〔 兵庫縣知事 大臣 米國軍艦ヒユーストン本朝八時四十五分入港ス 〕、p.9(昭和8年6月14日)〔 神戸首席監督官 次官 軍令部部長 電報 「ヒユーストン」午前二時青島ニ向ケ發 〕
  17. ^ #S08官房4003号 p.6(昭和8年11月20日)〔 横濱税關長 大臣 電報 米國軍艦ヒューストン號入港ス。〕
  18. ^ ニミッツ 1962, pp. 14–16米国の準備
  19. ^ ニミッツ 1962, p. 28.
  20. ^ ニミッツ 1962, p. 31.
  21. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 148–150ABDA艦隊、編成さる
  22. ^ ニミッツ 1962, p. 32.
  23. ^ グレンフェル 2008, p. 129.
  24. ^ グレンフェル 2008, p. 130.
  25. ^ ニミッツ 1962, p. 34.
  26. ^ 一式陸攻戦史 2019, pp. 150–152ジャワ沖海戦の奇妙な勝利?
  27. ^ a b 一式陸攻戦史 2019, p. 152.
  28. ^ a b ニミッツ 1962, p. 35.
  29. ^ a b The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
  30. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、348ページ
  31. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、362-363ページ
  32. ^ ニミッツ 1962, pp. 36–39ジャヴァ海海戦
  33. ^ a b c グレンフェル 2008, p. 131.
  34. ^ ニミッツ 1962, p. 38.
  35. ^ a b グレンフェル 2008, p. 132.
  36. ^ a b c d ニミッツ 1962, p. 39b.
  37. ^ グレンフェル 2008, p. 134.
  38. ^ グレンフェル 2008, p. 133.
  39. ^ ニミッツ 1962, p. 40.
  40. ^ a b 中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』153ページ
  41. ^ 宮崎, 35ページ
  42. ^ a b 中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』154ページ
  43. ^ [1]2019年11月16日閲覧
  44. ^ 泰緬鉄道建設に従事した連合国捕虜は計約6万人でうち米軍捕虜は686名、死亡者は133名 [2]2019年11月16日閲覧
  45. ^ 中名生正己「アメリカ巡洋艦はいかに戦ったか」『アメリカ巡洋艦史』157ページ

参考文献

  • ラッセル・グレンフェル「第十一章 蘭印の敗北」『プリンス オブ ウエルスの最期 主力艦隊シンガポールへ 日本勝利の記録』田中啓眞 訳、錦正社、2008年8月(原著1953年)。ISBN (978-4-7646-0326-4)。 
  • 佐藤暢彦「第六章 大艦巨砲主義は終わったか ― ジャワ沖のガスパール海峡の戦い」『一式陸攻戦史 海軍陸上攻撃機の誕生から終焉まで』光人社〈光人社NF文庫〉、2019年1月(原著2015年)。ISBN (978-4-7698-3103-7)。 
  • 「世界の艦船増刊第36集 アメリカ巡洋艦史」海人社、1993年
  • 「世界の艦船増刊第57集 第2次大戦のアメリカ巡洋艦」海人社、2001年
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』実松譲、富永謙吾(共訳)、恒文社、1962年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第026巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • 宮崎良純「夜戦の雄 "重巡三隈" バタビア沖の勝鬨」『写真 日本の軍艦7 重巡III』光人社、1990年、(ISBN 4-7698-0457-1)
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)「フランスの巡洋艦」『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN (978-4-8022-0627-3)。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『JACAR(アジア歴史資料センター)公文備考D巻4 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)官房第2311号8.5.22米国巡洋艦「ヒューストン」横浜寄港の件』。Ref.C05022739000。 
    • 『JACAR(アジア歴史資料センター)公文備考D巻4 外事 海軍大臣官房記録 昭和8(防衛省防衛研究所)官房第4003号8.9.7米国巡洋艦「ヒューストン」横浜寄港の件』。Ref.C05022739100。 

関連項目

外部リンク

  • USS Houston homepage
  • [3]
  • A Collection of Biographies and Photographs of those of Served aboard The USS Houston CA30 USS Houston Next Generation
  • Navy photographs of Houston (CA-30)
  • “Battle of Sunda Strait: 28 February-March 1 1942 by Vincent P. O'Hara”. 2006年5月31日閲覧。
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