トム・プライス(Tom Pryce)本名 : トーマス・モルドウィン・プライス(Thomas Maldwyn Pryce, 1949年6月11日 - 1977年3月5日)は、イギリス・ウェールズ出身のレーシングドライバー。
プロフィール
10歳でパン運送用のバンに乗ったことから車に興味を持つが、実は両親も彼をレーサーにしようとしていた。だが1975年のインタビューでプライスが語ったところによると本当はパイロットになりたかったが、成績上無理だと思いあきらめたという。
子供の時はジム・クラークに憧れていたが、1968年にクラークがホッケンハイムリンクで事故死した際には衝撃を受けた。同様に、1970年にヨッヘン・リントが事故死した際にも衝撃を受けた。
16歳で学校を中退後、母の意向により、もしレーサーになれなかったときの保険としてランドリロ・テクニカル・カレッジ(Llandrillo Technical College)でトラクターのメカニックの研修を受けた。
プライスはメカニックとして働きながらF3やF2に出場。1974年にトークン・フォードに乗りベルギーグランプリでF1デビュー。同年シャドウ・フォードに移籍。
1975年に結婚。同年オーストリアグランプリで3位に入賞し、イギリスグランプリでポールポジションを獲得する。ブランズハッチで行われた非選手権戦の「レース・オブ・チャンピオンズ」では、ポールポジションとファステストラップを奪ったうえ優勝するという活躍を見せた。イギリス期待の若手ドライバーと見る向きも多かった。『(ザ・ロスト・ジェネレーション (デビッド・トレメインの著書))』によると、1975年にはロータスへ移籍する話もあったが実現しなかった。
事故死
1977年キャラミサーキットで行なわれた南アフリカグランプリ決勝中、レンツォ・ゾルジがエンジントラブルに見舞われ、ピット正面のコントロールラインをやや過ぎたあたりのコース脇にマシンを止め降車した。その直後にゾルジのマシンから炎が上がったため、消火器を手にしたマーシャル2名がコースを横切り、ゾルジの車に走り寄ってきた。
現場は各マシンが高速で駆け抜けるホームストレートで、しかもキャラミ名物の急勾配を登った先のため見通しが悪く、ホームストレートの頂上付近でゾルジのマシンが停まってしまったため、下から上ってくるマシンの死角となり危険な状態だった。
プライスのマシンはこのとき22周目で、ハンス=ヨアヒム・スタックを追いかけながら事故現場付近に高速で接近していた。前を走るスタックはコースを横切るマーシャルに気付きとっさに避けることができたが、すぐ後ろを走っていたプライスはなすすべもなく、マーシャルのジャンセン・ヴァン・ヴーレンと衝突した。衝突の際、ヴァン・ヴーレンが手に持っていた消火器がプライスの頭部を直撃し、プライスはその場で死亡した。
ヴァン・ヴーレンは、時速300km近いスピードのマシンに撥ねられた衝撃で縦方向に激しく回転しながら宙を舞い、そのまま地面に叩き付けられて即死した。事故の一部始終は(シネカメラ)で撮影されており、有名な事故映像のひとつになっている。遺体の損傷が激しく、身元が判明したのは、レース後にスタッフ全員を集合させ、欠員を確認した後であった。
プライスのマシンは270km/hでホームストレートを暴走し、インコースのガードレールに接触したまま第1コーナーに突っ込み、コーナーに向け減速していたジャック・ラフィットのマシンに接触しながら、1コーナーを直進しコースアウトした。衝突されたラフィットは、ブレーキをかけてマシンを停止させた。
停止したプライス車に救護班が駆け付けたが、プライスは仰向でハンドルを握り、アクセルを踏み込んだ姿勢のままで死亡していた。
事故の原因は、マーシャルが不用意にコースを横切ったためだとする意見が多い。
ヘルメット
当初、プライスのヘルメットは白一色の極めてシンプルなものだったが、1970年に走行中でも見分けられるようにして欲しいと父から頼まれたことからバイザーの上に5本の黒い線を入れた。その後1975年にヘルメットの横にウェールズの国旗を入れた。さらにグッドイヤーのロゴが書かれていた。
現在
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | WDC | ポイント |
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1974年 | (トーケン) | (RJ02) | (ARG) | (BRA) | (RSA) | (ESP) | (BEL) Ret | (MON) | SWE | 18位 | 1 | ||||||||||
シャドウ | DN3 | (NED) Ret | (FRA) Ret | (GBR) 8 | (GER) 6 | (AUT) Ret | (ITA) 10 | (CAN) Ret | (USA) NC | ||||||||||||
1975年 | (ARG) 12 | BRA Ret | 10位 | 8 | |||||||||||||||||
DN5 | (RSA) 9 | ESP Ret | (MON) Ret | (BEL) 6 | (SWE) Ret | (NED) 6 | (FRA) Ret | (GBR) Ret | (GER) 4 | (AUT) 3 | (ITA) 6 | (USA) NC | |||||||||
1976年 | DN5B | (BRA) 3 | (RSA) 7 | (USW) Ret | (ESP) 8 | (BEL) 10 | (MON) 7 | (SWE) 9 | (FRA) 8 | GBR 4 | GER 8 | (AUT) Ret | 12位 | 10 | |||||||
DN8 | (NED) 4 | ITA 8 | (CAN) 11 | (USA) Ret | JPN Ret | ||||||||||||||||
1977年 | (ARG) NC | RSA Ret | (USW) | (ESP) | (MON) | (BEL) | SWE | (FRA) | (GBR) | (GER) | (AUT) | (NED) | ITA | (USA) | (CAN) | JPN | NC (43位) | 0 | |||
DN5B | (BRA) Ret |