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トミー (映画)

トミー』(Tommy)は、1975年イギリスミュージカル映画ザ・フー1969年5月に発表した史上初のロック・オペラ・アルバム『トミー』を映像化した作品である。監督はケン・ラッセル、原案、音楽監督はザ・フーのピート・タウンゼント。主人公のトミーをザ・フーのロジャー・ダルトリーが演じた。

トミー
Tommy
監督 ケン・ラッセル
脚本 ケン・ラッセル
ピート・タウンゼント
製作 ケン・ラッセル
(ロバート・スティグウッド)(英語版)
出演者 ロジャー・ダルトリー
アン=マーグレット
オリヴァー・リード
エルトン・ジョン
エリック・クラプトン
ティナ・ターナー
キース・ムーン
ジャック・ニコルソン
音楽 ザ・フー
撮影 (ディック・ブッシュ)(英語版)
ロニー・テイラー
編集 スチュアート・ベアード
製作会社 Robert Stigwood Organisation (RSO)
配給 コロンビア ピクチャーズ 東宝東和
公開 1975年3月26日
1976年4月24日
上映時間 111分
製作国 イギリス
アメリカ合衆国
言語 英語
興行収入 $34,273,583[1]
(テンプレートを表示)

ストーリー

Prologue 1945(プロローグ1945)
時は第二次世界大戦。ウォーカー大佐は身ごもる妻・ノラを残し出征。ノラは空襲におびえながらもウォーカーの帰還を待った。
Captain Walker / It's A Boy(キャプテン・ウォーカー/イッツ・ア・ボーイ)
ノラの元に届いた知らせは、「ウォーカー大佐、帰還せず」という残酷なものだった。終戦の日、ノラは男の子を出産する。男の子はトミーと名付けられた。
Bernie's Holiday Camp(バーニーのホリデイ・キャンプ)
1951年、ノラはトミーをつれてバーニーのホリデイ・キャンプに来る。ノラは、キャンプの世話人のフランクと恋に落ちる。ノラはフランクを新しい夫として迎え入れた。
1951 / What About The Boy?(1951/ホワット・アバウト・ザ・ボーイ)
夫婦となったノラとフランク。だがそこに死んだと思われていたウォーカー大佐が帰ってきた。ウォーカーと鉢合わせたフランクは、ランプでウォーカーを殴り殺してしまう。一部始終を目撃したトミーに、ノラとフランクは「お前は何も見ず、何も聞かなかった。この事は一生誰にも言ってはいけない」と迫る。これがトラウマになり、トミーは盲目聾唖の(三重苦)に陥ってしまう。
Amazing Journey(すてきな旅行)
三重苦となったトミーだが、心の中では様々なものを見ていた。だが外界からの声には全く反応しなかった。
Christmas(クリスマス)
ノラとフランクは自宅でクリスマス・パーティーを開くが、トミーには何の関わりもなかった。クリスマスの意味も理解できないノラは深く悲しむ。
Eyesight To The Blind(光を与えて)
成長してもなお、トミーは三重苦のままだった。ノラはマリリン・モンロー偶像崇拝するカルト教団の集会にトミーを連れ出す。
The Acid Queen(気むずかしい女王)
フランクは売春宿にトミーを連れ出し、アシッド・クイーンを名乗る怪しげな女にトミーを診せる。女は麻薬でトミーを治療しようとする。
Do You Think It's Alright? I(大丈夫かいI)
ノラとフランクは、いとこのケヴィンにトミーを託してどこかへ出かけてしまう。
Cousin Kevin(いとこのケヴィン)
学校一の乱暴者のケヴィンは、反抗できない事をいいことに執拗にトミーをいじめぬく。
Do You Think It's Alright? II(大丈夫かいII)
ノラとフランクは、叔父のアーニーにトミーを託して、またもどこかへ出かけてしまう。
Fiddle About(フィドル・アバウト)
叔父のアーニーもまた、トミーに様々ないたずらを仕掛けるのだった。
Do You Think It's Alright? III(大丈夫かいIII)
ずっと鏡を見つめてばかりのトミーをノラは心配するが、フランクは気にも留めなかった。
Sparks(スパークス)
トミーは、鏡の中の自分に導かれるように自分の足で歩き出す。もう一人の自分を追ううちに、トミーはスクラップ置き場の中へ迷い込んでしまう。自分の姿を見失ったトミー。だが、捨て置かれていたピンボール台の上に光を見つけた。警察に発見された時、目が見えないトミーはピンボールを夢中でプレイしていた。
Extra,Extra,Extra(号外、号外、号外)
三重苦の少年がピンボールをするという噂は瞬く間に世間に広がり、トミーは一躍時の人に。ピンボール対決で連戦連勝を続けるトミーは、ついにピンボール・チャンピオンと対決する。
Pinball Wizard(ピンボールの魔術師
トミーはチャンピオン相手でも変わらずにその腕を見せつけ、ついに「ピンボールの魔術師」の称号を獲得する。人々はトミーに熱狂した。
Champagne(シャンペン)
トミーの活躍により巨万の富を得たノラ。だが豊かさはノラに何の安らぎも与えず、どんなに有名になっても変わらないトミーの三重苦にもがき苦しむ。
There's A Doctor(医者が見つかった)
フランクはトミーを治せるという医者を見つけた。
Go To The Mirror(さあ鏡のところへ)
その医者にも、結局トミーを治す事は出来なかった。だが医者が言うには、トミーは視覚、聴覚は正常で話す事も可能だが、心の中の障害がそれを阻んでいると診断した。フランクはトミーの頭の中で起こっている事を知りたいと欲する。
Tommy Can You Hear Me? (トミー、聞こえるかい)
ノラはトミーに必死に語りかけるが、トミーは何の反応も示さない。
Smash The Mirror(鏡をこわせ)
苛立ちが頂点に達したノラは、「鏡を壊すわよ」とトミーに迫る。ノラは弾みでトミーを鏡にぶつけてしまう。
I'm Free(僕は自由だ)
鏡が割れた衝撃により、ついにトミーは回復する。外界との世界が繋がれた喜びを、トミーは体いっぱいに表現する。
Mother And Son(母と息子)
トミーとノラは、ついに三重苦から解き放たれた喜びを互いに分かち合う。
Miracle Cure(奇蹟の治療)
トミーが回復したというニュースは瞬く間に広がった。トミーはさっそく宣伝活動に駆りだされる。
Sally Simpson (サリー・シンプソン)
少女サリーは、父親の忠告を無視して大好きなトミーのコンサートに出かける。だがサリーは会場の狂乱に巻き込まれ、顔に大きな傷を負う。後にサリーはカリフォルニア出身のロックンローラーと結婚する。
Sensation(センセイション)
トミーはハンググライダーで世界中を飛び回り、布教活動をする。
Welcome(歓迎)
トミーは自分の元に集まってくる信奉者達を自宅に招き入れる。
T.V.Studio(TVスタジオ)
トミーの影響は世界中にまで及んでいた。ノラはテレビを通じて「トミーのホリデイ・キャンプ」の開催を告知する。
Tommy's Holiday Camp(トミーのホリデイ・キャンプ)
トミーのホリデイ・キャンプに、大勢の信奉者達が集まった。叔父のアーニーが案内係を務めるが、グッズの売り上げをひそかに掠め取っていた。次第に信奉者達の間にトミーへの疑念が生まれ始める。
We're Not Gonna Take It(俺たちはしないよ)
トミーの指示通り、目隠しと耳栓をし、口にコルクをはめた状態でピンボールをする信奉者達。だがそれで悟りの境地に至るはずもなく、耐え切れなくなった信奉者達はついに暴徒化する。キャンプは崩壊し、混乱に巻き込まれたノラとフランクは死亡する。
Listening To You / See Me,Feel Me(リスニング・トゥ・ユー/シー・ミー・フィール・ミー[注 1]
全てを一度に失ったトミーは、再び孤独の世界に閉じこもる。だが、もはやトミーを縛るものは何もなくなった。真の自由を手に入れたトミーは、山に登り、晴れやかな表情で朝日に向かい歌うのだった。

キャスト

スタッフ

参加ミュージシャン(ボーカル以外)

作品解説

オリジナル版『トミー』がリリースされた時点では、ストーリーを把握する材料が歌詞しかなく、それ以外に物語の展開を解説・補足する文章などが何も添付されなかったため、リスナーにとって非常に難解な物語であった。この映画によって、従来歌になかった部分までが映像として確認できるようになり、ストーリーがかなり分かりやすいものになった。

映画は全編にわたり、ラッセルが得意とするアバンギャルドで狂気的な演出がなされ、ティナ・ターナー演じる「アシッド・クィーン」のシークエンスや、エルトン・ジョン演じる「ピンボールの魔術師」とトミーの対決シーン、「スパークス」でのトミーのトリップシーンなどに代表されるように、映像全体が原色を基調にした非常にカラフルなものになっている。ラッセルはこの作品に、資金調達が出来ず製作に至らなかった自身の作品「エンジェル」を投影させたと語っている[2]。そのため、本作では原作よりもラッセルの意向が強く出ており、反対に『トミー』の持つ内省的な面や繊細さが損なわれてしまい、タウンゼントは大いに失望したという。この影響か、『トミー』と並ぶザ・フーのコンセプト・アルバムの傑作『四重人格』の映画化『さらば青春の光』の製作では、ザ・フー自らが製作総指揮を担当した[3]

ストーリーは全編にわたってすべて歌のみで構成され(英:Sung-through)、地のセリフは一切ない。また、ストーリーを明確化するために足りない部分を補強するため、大部分の楽曲に新たな歌詞を追加した。「バーニーのホリデイ・キャンプ」は「トミーのホリデイ・キャンプ」の、「号外、号外、号外」は「奇蹟の治療」のアレンジ・バージョンである。また「大丈夫かい」は3つのバージョンが用意された。さらに、映画のために新曲が3曲書き下ろされた(「シャンペン」、「母と息子」、「TVスタジオ」)。

音楽

音楽はすべてこの映画のためにあらためてレコーディングされており、オリジナル・アルバムのバージョンを挿入したものではない。ミュージシャン陣はもとより、俳優陣もすべて自分が演じたパートの歌を自らアフレコしており、吹き替えは一切ない(少年時代のトミーを除く)。サウンド面ではオリジナル版では一切使用されなかったシンセサイザーが多用されており、よりシンフォニックなアレンジになっている。

トミーの母親ノラを演じたアン=マーグレットはシンガーでもあり、1963年の『(バイ・バイ・バーディ)』(Bye Bye Birdie)、エルヴィス・プレスリーと共演した1964年の『(ラスベガス万才)』(Viva Las Vegas) などすでにミュージカル映画への出演経験が豊富で、本作でも見事な歌声を聴かせている。歌は専門ではないジャック・ニコルソン、オリヴァー・リードについてもすべて本人の歌唱である。

映像に登場して歌う俳優やミュージシャン以外に、裏方として演奏のみに参加したセッション・ミュージシャンが多数おり、(ミック・ラルフス)(バッド・カンパニー)、ロン・ウッドフェイセズ、後にローリング・ストーンズ)、ケニー・ジョーンズ(フェイセズ、後年キース・ムーンの後任としてザ・フーに加入)、ニッキー・ホプキンスら豪華な顔ぶれが腕をふるった。

音響システムには、QSクインタフォニック形式を採用した。現在でいうサラウンド音声の先駆けであるが、これを採用している映画館は当時ほとんどなく、劇場側は公開のために新しい機材を導入しなければならなかった[4]

サウンドトラック盤は映画が一般公開される前の1975年3月にリリースされた(発売元はポリドール)。このサントラ盤からエルトン・ジョンが歌唱した「ピンボールの魔術師」はシングルとしてリリースされ、全英7位につけるヒットとなった[5]

オリジナルからの変更点

※オリジナル版のストーリーは『トミー』を参照。

  • オリジナルでは舞台が第一次世界大戦時であったが、映画では第二次世界大戦時となっている。これに伴い「1921」という曲のタイトルは「1951/What About The Boy?」に変更された。
  • ウォーカー大佐がイギリス空軍(RAF)に所属することが明示されている。
  • 名前のなかったトミーの母親と情夫に、それぞれ「ノラ」、「フランク」という名前が与えられた。
  • オリジナルにはなかった母親と情夫の出会いのきっかけは、「バーニーのホリデイ・キャンプ」の中で描かれた。
  • オリジナルではウォーカー大佐が情夫を殺すが、映画版では逆に情夫のフランクがウォーカー大佐を殺す。
  • 曲順がオリジナルから大幅に変更されている。「光を与えて」と「クリスマス」、また「従兄弟のケヴィン」と「アシッド・クイーン」、「僕は自由だ」と「センセイション」の順番はそれぞれオリジナル版と逆になっている。また本来は「すてきな旅行」の後に来る「スパークス」が、「フィドル・アバウト」と「ピンボールの魔術師」の間に置かれている。
  • オリジナルにはなかったトミーがピンボールの才能を開花させるエピソードは、「スパークス」の中で補完されている。
  • 映画ではトミーが億万長者になり、世界的有名人にまでなるが、オリジナル版ではそこまでになるような描写はない。

製作

経緯

『トミー』映画化の計画は、レコーディングを開始した1968年当時にはすでにあったが、当時のザ・フーはダルトリーによれば「(映画化はおろか)アルバムを出せるかさえ怪しかった」という状況だった[6]。当時ザ・フーのマネージャーで『トミー』のプロデューサーでもあったキット・ランバートは、独自に「TOMMY 1914-1984」と題した脚本を書き進めていた。本作の監督には当初からケン・ラッセルを起用するつもりだった事をタウンゼントが明かしている。だがラッセルは他の作品で手一杯であるとオファーを断っている[4]

1970年、タウンゼントは「(ライフハウス)」の構想を思いつき、『トミー』の代わりにこちらの映画化を画策するが、ランバートは「ライフハウス」には目もくれず、自身が書いた『トミー』の脚本の売り込みに奔走していた。結局「ライフハウス」の計画は頓挫するが、『トミー』の方も十分な出資が得られず、映画化の見通しは不透明な状況に陥った[4]。なお、この間にジョージ・ルーカスにもオファーを出しているが、彼は『アメリカン・グラフィティ』の製作にとりかかっており、依頼を断っている[7]

状況が変わったのは1972年。オーケストラ版『トミー』の発表とそのチャリティ・ライブが評判を呼び、映画化のオファーが多数入るようになった。1973年、当時の音楽業界の大物で、バンドのエージェントでもあった(ロバート・スティグウッド)と契約を結び、監督をケン・ラッセル、主演をロジャー・ダルトリーとすること、1年後に撮影を開始することで本作の製作が決まった[4]。ラッセル自身はロックに興味はなかったがオペラは好きで、『トミー』を聴いて興味が湧き参加を決めたという[2]

最終的に契約を取りまとめたのは、ランバートと共にザ・フーのマネージャーを務めていたクリス・スタンプと、この頃よりランバートやスタンプに代わってバンドのマネージメントを担当するようになったビル・カービシュリーであった[8]。『トミー』映画化に最も尽力したランバートは、皮肉な事に本作の制作が決定した1973年には金銭をめぐるトラブルでザ・フーのメンバーと決別しており、本来であれば最も高い報酬を得られたはずがエンドロールに名前が載せられるだけに留まった[9]

配役

主人公のトミーをダルトリーが演じる事は契約時には確約されていたが、学校での演劇すらやった事のないダルトリーは当然難色を示し[6]、タウンゼントも「ロジャーは(トミーを演じるには)少し歳をとりすぎていた」と反対であった事を打ち明けている(撮影が始まった1974年4月の時点で30歳)[10]。だがラッセルは頑として譲らず、ダルトリーとしては大きな不安の中での撮影となった。

母親ノラを演じたアン=マーグレットは年上とは言えダルトリーと3歳しか違わず、ダルトリーはこのあたりにもやり辛さを感じていたという[6]。継父フランク役のオリヴァー・リードとも6歳差しかなく、叔父アーニー役のキース・ムーンにいたっては2歳年下である。

ピンボールの魔術師の役には、当初スティーヴィー・ワンダーが候補に挙げられており、実際にワンダーにオファーを出したが断られた[10]。エルトン・ジョンも当初はピンボールの魔術師役を拒絶し、デヴィッド・エセックスがテストバージョンまで録音した。しかしプロデューサーのロバート・スティグウッドが根気よく交渉し、最終的にはエルトンがこの役を演じている。エルトンが歌った「ピンボールの魔術師」の演奏は、彼のバックバンドが務めている。エリック・クラプトンも当初は出演に難色を示していたが、タウンゼントが熱心に説得し、スタジオに誘うと本人も乗り気になったという[11]

ラッセルは当初名医役にクリストファー・リーを希望していたが、リーは『007 黄金銃を持つ男』の撮影中でバンコクにおり参加は不可能であった。幸いニコルソンが丁度ロンドンにいて時間が空いており、クランクイン直前に役を引き受けた[7]。彼の担当箇所は撮影、レコーディング合わせて18時間で終了した。他にピーター・セラーズも名医役の候補に挙がっていた[12]

映画ではティナ・ターナーが演じた「アシッド・クイーン」の役は、当初デヴィッド・ボウイが演じる予定であった[7]。またラッセル自身も、「光を与えて」で車椅子の障害者役でカメオ出演している[12]。また、ラッセルの娘、ビクトリアもサリー・シンプソン役で出演している[2]

録音、撮影

製作はレコーディングから始められた。1974年1月、タウンゼントはメンバーを集結させ録音を開始したが、作業量が膨大な上、当時はキース・ムーンが体を壊しており、多くのゲストミュージシャンに協力を頼む事になった。レコーディングではオリヴァー・リードの歌唱があまりにひどく、彼の歌撮りは一節一節に区切って撮り、その後編集するという手法を採った。レコーディングでは難儀したリードであったが、撮影になると完璧に歌い上げ、タウンゼントは大変驚いたという[10]。タウンゼントはニコルソンもリード同様に不安視していたが、ニコルソンが楽しげに歌っているのを聴いて何とか安心したという[12]。レコーディング後、ニコルソンは「疑ってたろ?」とからかい、タウンゼントはそれに「当然だろ」と返したという[10]

撮影は1974年4月に開始[13]。ロケーションは主にポーツマス周辺で行われた。物語の舞台を第1次大戦時から第2次大戦時に変えたのはラッセルであった。理由についてラッセルは「そのほうが身近に感じられるし、私自身も身をもって経験している」からだとしている。また「光を与えて」や「トミーのホリデイ・キャンプ」で出てくる障害者たちは全員本当の障害者であり、ロケ場所の近くの病院や施設から出演者を募ったのだという[2]

撮影中も幾多のトラブルに見舞われた。主演のダルトリーは常に生傷が絶えず、マーグレットも「シャンペン」の中で泡や豆、チョコレートまみれになるシーンで割れたテレビのブラウン管の破片で手を切り数針縫う怪我を負ったが[4]、翌日には撮影に戻った[2]。「ピンボールの魔術師」の撮影はポーツマスのキングス・シアターで行われたが、ここでの観客がステージに流れ込む場面は脚本にはなかった[7]。この時、タウンゼントが放り投げたギターがエキストラの一人の頭上に落ち、病院に担ぎ込まれた[14]。またラスト近くの埠頭の建物の火事は、演出ではなく偶然起きたものである[7]。「俺達はしないよ」の中のノラとフランクが踊るシーンで、数箇所のカットで煙が写りこんでいる。火事の理由についてラッセルは不明だとしている[2]

演技未経験の上、三重苦の少年という難しい役どころを任されたダルトリーだったが、撮影が進むにつれて楽しくなり「このまま撮影が終らなければいいのに」と思うほどになったという[6]。彼は危険な場所での撮影も臆することなく、搭上からハンググライダーで飛ぶ場面以外は一切の吹き替えも使わなかった[6](ラッセルはこの場面もダルトリー本人だとしている[2])。ラッセルはダルトリーの演技を大いに評価し、翌年にはラッセルの次回作『(リストマニア)』にダルトリーを抜擢している[15]。これをきっかけにダルトリーは俳優としても本格的に活動するようになる。

撮影は1974年8月21日を以て終了した。最後の撮影は(ヘイリング島)とサウスシーで行われた。当初は予算100万ポンド、撮影期間は12週と考えられていたが、最終的に240万ポンドの出費と18週間にも及ぶ期間を要した[16]。編集は1974年11月下旬までかかった[17]

評価

ワールド・プレミアは1975年3月18日に、一般公開は同年4月に行われた。評価はおおむね好評であり、プレミアでは観客が全員総立ちとなり、アンコール上映が要求されたという[4]。1975年度のアカデミー賞にアン・マーグレットが最優秀主演女優賞に、ピート・タウンゼントが最優秀歌曲・編曲賞にノミネートされた。またゴールデン・グローブ賞ではマーグレットがミュージカル/コメディ部門最優秀主演女優賞を受賞、ロジャー・ダルトリーも最優秀新人男優賞にノミネートされた。また、1975年カンヌ国際映画祭にも招待作品として出品された[18]

一方で上記のとおりタウンゼントのこの映画への評価は低く、またザ・フーファンからも一部批判が上がり、映画としての出来には否定的な声もある[3]。この映画は、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』にも強い影響を与えている[2]

Rotten Tomatoesによれば、34件の評論のうち高評価は71%にあたる24件で、平均点は10点満点中6.8点、批評家の一致した見解は「『トミー』はピンボールゲームのように気まぐれで推進力があり、ケン・ラッセル監督ならではの視覚的想像力を駆使してザ・フーの楽曲を不遜なオデッセイに組み込んでいる。」となっている[19]Metacriticによれば、10件の評論のうち、高評価は7件、賛否混在は2件、低評価は1件で、平均点は100点満点中66点となっている[20]

エピソード

  • オリジナルからの最大の変更点である情夫がトミーの父親を殺すという展開は、タウンゼントによればラッセルが自身の父親に対し殺人願望を抱いていた事に起因するという[21]。この改変に対しタウンゼントは「殺されるのがどちらでも大した問題ではない」と容認している[10]。ラッセル自身は「歌詞を間違えて解釈したのかもしれない」と語っている[2]
  • 「光を与えて」のシーンは、ポーツマスの海兵隊の兵舎にある本物の教会で撮影された。撮影中に軍隊の上司から「神への冒涜だ!中止しろ!」と怒られたが、ラッセルがスティグウッドに連絡し、スティグウッドが陸軍省に電話を入れると、司令官は「続けていい」と態度を翻したという[2]
  • 「従兄弟のケヴィン」で歌詞どおりの仕打ちを受ける羽目になったダルトリーは、この曲の作詞者であるジョン・エントウィッスルに「こんなひどい歌詞にする事なかっただろ」と恨み言を漏らしたという[21]。なお、ケヴィンが放水器でトミーをびしょ濡れにするシーンで、実際に放水器を操っていたのはケヴィン役のポール・ニコラスではなくラッセルである[6]
  • エルトン・ジョンは、撮影中に使った巨大ブーツを気に入り[7]、撮影後にスタッフに頼み込んで譲ってもらった。だがその後飽きてしまったらしく、競売に出されたという[2]
  • オリヴァー・リードとキース・ムーンはとてもウマが合ったらしく、撮影期間中はよくつるんでいたという[10]。ラッセルはムーンについては「普段は物静かで繊細だった」と語っている[2]
  • アン=マーグレットの「シャンペン」のシーンの撮影には3日もかかった[7]。また同シーンの撮影にはマーグレットの夫が強く反対したが、ラッセルは撮影を強行した[2]
  • 「センセイション」に登場するバイク集団は本物のヘルズ・エンジェルスのメンバーであり、喧嘩のシーンも演技ではない[2]
  • 南アフリカでは、トミーのキャンプ崩壊後の埠頭が燃えるシーンで映画が終っている。この後に続く「リスニング・トゥ・ユー」の歌詞とラストシーンが異教徒的だとしてカットされたのだという[2]
  • 日本版のミュージカルが上演された2007年4月にその記念としてテレビ朝日で深夜に放送された。
  • ジョン・レノンは「ああ、あの老いぼれのキース・ムーンが出ている映画か。それだけでも見る価値はあるよ」と発言した。

ソフト化

時期は不明だがVHSがポリドールから販売されていた[22]1999年に初DVD化。2004年にリリースされたコレクターズ・エディションでは、公開当時採用していたクインタフォニック音声(5.0chサラウンド)に加え、DTS5.1chサラウンド音声も収録。またタウンゼント、ダルトリー、マーグレット、ラッセルの各最新インタビュー、劇場予告編も収録された。

脚注

注釈

  1. ^ 歌詞の順序に倣えば「シー・ミー・フィール・ミー/リスニング・トゥ・ユー」となるはずだが、なぜかこのように記載されている。

出典

  1. ^ Tommy” (英語). Box Office Mojo. 2022年10月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o DVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)収録のケン・ラッセルによるオーディオコメンタリーより
  3. ^ a b 『レコード・コレクターズ増刊 ザ・フー アルティミット・ガイド』レコード・コレクターズ、2004年、87頁。 
  4. ^ a b c d e f DVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)付属ブックレットのマット・ケントによるライナー・ノーツより
  5. ^ pinball+wizard | full Official Chart History | Official Charts Company
  6. ^ a b c d e f DVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)収録のロジャー・ダルトリーへのインタビューより。
  7. ^ a b c d e f g DVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)付属ブックレットのトリビア集より。
  8. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、254頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  9. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、285頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  10. ^ a b c d e f DVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)収録のピート・タウンゼントへのインタビューより。
  11. ^ DVD『トミー・コレクターズ・エディション』(2004年)収録のケン・ラッセルへのインタビューより。
  12. ^ a b c “Tommy(1975) - Trivia - IMDb:”. 2015年9月14日閲覧。
  13. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、275頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  14. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、276-277頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  15. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、271頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  16. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、281頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  17. ^ アンディ・ニール、マット・ケント 著、佐藤幸恵、白井裕美子 訳『エニウェイ・エニハウ・エニウェア』シンコー・ミュージック、2008年、284頁。ISBN (978-4-401-63255-8)。 
  18. ^ “Festival de Cannes: Tommy”. festival-cannes.com. 2009年5月4日閲覧。
  19. ^ "Tommy". Rotten Tomatoes (英語). 2022年10月13日閲覧
  20. ^ "Tommy" (英語). Metacritic. 2022年10月13日閲覧。
  21. ^ a b 『レコード・コレクターズ増刊 ザ・フー アルティミット・ガイド』レコード・コレクターズ、2004年、68頁。 
  22. ^ “The Who - Tommy The Movie” (英語). Discogs. 2015年9月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年9月14日閲覧。

外部リンク

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