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カフェー (風俗営業)

カフェーは、日本20世紀前半に流行した飲食店風俗営業の一業態。古くは特殊喫茶社交喫茶という言い方もあった。

1930年代当時のカフェーが立ち並ぶ夜の新宿
銀座のカフェー・タイガー(円内)とカフェ・クロネコ
銀座のカフェ・クロネコ(昭和2年開業)の内部。右は同店1階のイナイナイバー。
猪崎新地に残るカフェー様式の妓楼

概要

カフェーの始まり

日本においてコーヒーを飲ませる店として最初に開業したのは(鄭永慶)(元外務省官吏)が開いた1888年の東京下谷区上野黒門町の「可否茶館(かつひーさかん)」とされるが[1]、カフェーの名を冠した最初の店は、1911年明治44年)3月、東京銀座京橋日吉町に開業したカフェー・プランタンとされる[2]。経営者は洋画家平岡権八郎松山省三で、命名は小山内薫による。これはパリのCafeをモデルに美術家や文学者の交際の場とすべく始まったものであるが、本場のCafeとは異なり女給を置いていた(パリのカフェの給仕ギャルソンと呼ばれる男性である)。カフェー・プランタンなどはインテリ向けのハイカラな店で一般大衆は入りにくかったと言われる。

カフェー・プランタンに続き、同年8月には美人女給を揃えたカフェー・ライオン、同じく11月にはカフェーパウリスタが開業し、大正末には全国に普及した[3]。プランタン、ライオンは「料理を出すバー」といった趣きで、パウリスタは女給を置かず、当初はコーヒーと菓子だけの店だったがのちに料理も出すようになった[4]。カフェーを冠する店が増えるが、この頃のカフェーはまだコーヒー、料理(洋食)、が主であり、後年のような風俗営業とは同列にできない。

風俗営業としてのカフェー

カフェーがもっぱら女給のサービスを売り物にするようになったのは関東大震災後と見られる。震災の翌年(1924年)、銀座に開業したカフェー・タイガーは女給の化粧や着物が派手で、客に体をすり寄せて会話するといったサービスで人気を博した[5]

昭和に入り、大阪の大型カフェ(ユニオン、赤玉など)が東京に進出してきたことにより「銀座は今や(…)大阪エロの洪水」という状態で[6]、女給は単なる給仕(ウエイトレス)というより、現在で言えばバークラブホステスの役割を果たすことになった。

ちなみに当時の女給は多くの場合は無給であり、もっぱら客が支払うチップが収入源だった[7]。チップ制の弊害もあり、1933年頃からチケット制を採用する店も増えた[8]。1933年には特殊飲食店営業取締規則により、カフェーは風俗営業として警察の管轄下に置かれることになった。

昭和初期のエログロナンセンスの世相の中、夜の街を彩る存在としてカフェーは小説などの舞台にもなった。当時のカフェーを描いた小説として永井荷風つゆのあとさき」、堀辰雄不器用な天使」、窪川稲子「レストラン・洛陽」、広津和郎「女給」がある(広津の作品は菊池寛のカフェー通いを描いて評判になった)。また、谷崎潤一郎痴人の愛」のナオミは、15歳で浅草のカフェーに出ていた女という設定である。林芙美子がカフェー勤めの経験を「放浪記」に書いたこともよく知られている。エッセイでは松崎天民「銀座」、安藤更生「銀座細見」などがカフェー風俗を活写している。

大正後期から昭和初期にかけては、カフェーをテーマにした歌謡曲が流行し「カフェー歌謡」と呼ばれた[9]

1934年(昭和9年)10月、警視庁はカフェーへの未成年者、学生、生徒の出入を禁止する通牒を学校当局、府知事に発出。店に対して「学生さんは遠慮ください」との看板を出すように指導した[10]。こうした規制は全国に波及し、1936年(昭和11年)5月、京都府はカフェー営業取締規則を改正し、学生、生徒、未成年者のカフェーの出入を禁止した。この時点で学生のカフェーへの出入り制限は全国15府県で実施されていた[11]

1938年(昭和13年)2月15日には、東京都下のカフェーなどで一斉手入れが行われ、約2000人の学生が検挙された[12]。既に日中戦争が始まっていた時期であり、内相が学生の徴兵猶予の見直しに言及するなど客への締め付けも厳しくなった[13]

女給は客の求めに応じて店外で同伴するケースも見られた。1940年(昭和15年)12月、警視庁日本相撲協会関係者らを招き、風紀上問題のある行為を指導した際には、相撲の升席の客に芸妓とならび女給を同伴させないことを求めている[14]

第二次世界大戦後

第二次世界大戦終戦後、いわゆる赤線青線地帯や特殊飲食街が発生し、かつての遊廓や新規参入業者などがカフェー名目で営業を行うようになったため[15]、それまでのカフェーの方はバークラブなどと称するようになった。

法律用語としての「カフェー」は今も残っており、風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風適法)第2条第1項第2号には「待合、料理店、カフェーその他設備を設けて客の接待をして客に遊興又は飲食をさせる営業」という規定がある。

なお「純喫茶」という呼称があるが、これは酒類の提供や女給の接待を売りにするカフェー(特殊喫茶)に対して「純粋にコーヒーを売りにする喫茶店」という意味である。

登場する映像作品

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ カフェー 勝本清一郎、1964年、青空文庫
  2. ^ 可否茶館 かつひーさかん コトバンク
  3. ^ カフェ café コトバンク
  4. ^ 『ちんちん電車』獅子文六、河出書房新社、2017年
  5. ^ 安藤更生『銀座細見』p.81
  6. ^ 安藤更生『銀座細見』p.116
  7. ^ 安藤更生『銀座細見』p.129
  8. ^ 西沢爽『雑学東京行進曲』pp.348-349
  9. ^ 今西英造『演歌に生きた男たち』、菊池清麿『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』に詳細に記されている。
  10. ^ カフェー、バーから学生服締め出す『東京朝日新聞』昭和9年10月5日夕刊(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p344 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  11. ^ カフェーなどから学生を締め出し『大阪毎日新聞』昭和11年5月15日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p154)
  12. ^ 東京の盛り場、抜き打ち二千人検挙『東京日日新聞』昭和13年2月16日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p71)
  13. ^ 徴兵猶予取り消しも考えると末次内相『東京日日新聞』昭和13年7月30日(『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p72)
  14. ^ 芸妓同伴、昼酒は禁止『朝日新聞』昭和15年12月15日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p300)
  15. ^ 「料理屋など十一件許可前に建つ 池上特飲街もめる」『朝日新聞』昭和25年11月11日3面

関連項目

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