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アンドロノヴォ文化

アンドロノヴォ文化(アンドロノヴォぶんか、Andronovo culture)とは、紀元前2300年から1000年頃の青銅器時代に、中央アジアステップ地帯からシベリア南部の広い範囲に見られた、類似する複数の文化をまとめた名称である。単一の文化ではなく、文化複合または(考古学的ホライズン)(英語版)と呼ぶ方が適切である。インド・イラン語派の言語を話すアーリア人との関係が有力視されるが、インド・イラン方面の古文化と直接結び付かないとする批判もある。

アンドロノヴォ文化の最大領域を橙色で示す。シンタシュタ・ペトロフカ文化を赤色で示す。初期のスポーク型車輪つきチャリオットの出土範囲を紫で示す。隣接または重複する文化(アファナシェヴォ文化、スルブナヤ文化、バクトリア・マルギアナ複合BMAC)をそれぞれ緑で示す。

アンドロノヴォは1914年墳墓発掘調査が行われ、屈葬された人骨や装飾土器が発見されたエニセイ川流域に属するアチンスク付近の村の名である。

時代区分

時代的・地域的に少なくとも4つの文化に細分される。カスピ海アラル海北側の南ウラル地域から始まり、東および南に拡大したとされる。

地理的には非常に広大な範囲に及ぶ。西端ではヴォルガ・ウラル方面の同時期の(スルブナヤ文化)(英語版)と重なり、東では先立つアファナシェヴォ文化の領域と重なりシベリア南部に及ぶ[1]。南ではトルクメニスタン、タジキスタン(パミール高原)、キルギスタン天山山脈)にまで遺跡が分布する。北端はタイガの南端にほぼ一致する。ヴォルガ川流域ではスルブナヤ文化との接触が顕著で、西はヴォルゴグラードまでフョードロヴォ式土器が見出されている。

紀元前2千年紀初めから半ばにかけてアンドロノヴォ文化は東への急速な拡大を見せた。アルタイ山脈では銅山が採掘された。埋葬には石棺または石囲いが用いられ、さらに木槨で囲まれた。生活様式はなどの牧畜が中心で、農耕も行われた。

インド・イラン民族との関係

アンドロノヴォ文化の分布地域はインド・イラン語派の発祥地と目される地域に重なり、またこの地域のなかにあるシンタシュタ・ペトロフカ・アルカイム文化で紀元前2000年頃にスポーク型車輪のついたチャリオット[2]を発明したとも考えられているため、この語派との関係が有力視されてきた。

ウラル川上流部にあるシンタシュタ遺跡は、チャリオットが墓の副葬品として発掘されたので有名である。クルガン(墳丘)で覆われ、動物(馬と犬)も殉葬された。シンタシュタや他のヴォルガ・ウラル地域の遺跡は原インド・イラン民族のものと考えられてきた。

しかしアンドロノヴォ文化をインド・イラン系とする説に対しては、特徴的な木槨墓がアムダリヤ以南のステップには見られないとの反論がある。また南方のバクトリア(アフガニスタン北部)・(マルギアナ)(英語版)(トルクメニスタンのメルブ地域)のオアシス地帯に同時期栄えたバクトリア・マルギアナ複合(BMAC)こそが原インド・イラン民族の文化であるとする主張もある(サリアニディSarianidiら)。サリアニディは「考古学的データから、アンドロノヴォ文化のBMACへの侵入はごくわずかであった」[3]という。

Kuz'mina(1994)は、インド・アーリア語が近東のミタンニヴェーダ時代のインドでこの地域としては初めて使われたこと、チャリオットの出たシンタシュタ遺跡が紀元前16-17世紀とされることを根拠に、この文化はインド・イラン系であるとする。

一方Klejn(1974)とブレンチェスBrentjes(1981)は、チャリオットを使うアーリア人が紀元前15-16世紀までにはミタンニに現れていることから、この文化は原インド・イラン系とするには遅すぎるとしている。ただしAnthonyとヴィノグラードフVinogradov(1995)はクリヴォエ湖(Krivoye ozero)で発掘されたチャリオットを紀元前2000年頃のものとしていることから、この批判は必ずしも成り立つものではない。

マロリーMallory[4]はアンドロノヴォ文化を北インドにまで拡大したと見るのは非常に困難だとし、その南端に当たるベシケント・ヴァクシャ文化も中央アジアに止まり、インド・イランには結び付けられないとする。そのため、アンドロノヴォ文化はこの時代に既に広範囲に拡散していたインド・イラン語派の諸文化のひとつであったと考えられる。

その後

シンタシュタ・ペトロフカ文化は東方のフェドロヴォ文化と南方のアレクセーエフカ文化に引き継がれ、これらもアンドロノヴォ・ホライズンの一部と見なされている。

南シベリアとカザフスタンではアンドロノヴォ文化はカラスク文化(紀元前1500-800年頃)に引き継がれる。この文化の担い手は非印欧民族といわれる一方で、原イラン民族との推定もある。

西端部ではスルブナヤ文化に引き継がれるが、これは部分的にはアファナシェヴォ文化にも由来する。この地域で初めて歴史に登場する民族はキンメリア人サカまたはスキタイ人で、アレクセーエフカ文化の後、アッシリアの記録に現れる。彼らは紀元前9世紀頃ウクライナに、また紀元前8世紀頃カフカス山脈を越えてアナトリアとアッシリアに現れた。また西ではヨーロッパに移動してトラキア人やシギュンナイ人Sigynnae[5]となった可能性がある。

脚注

  1. ^ Mallory 1989:62
  2. ^ のちにインドや中近東各地で用いられた二輪戦車
  3. ^ ブリアントBryant 2001:207を参照
  4. ^ Bryant 2001:216を参照
  5. ^ ヘロドトスによればドナウ川の向こう、トラキアの北に、ストラボンによればカスピ海近くにいたといい、両者ともイラン系としている


外部リンク

  • THE SINTASHTA CULTURE AND SOME QUESTIONS OF INDO-EUROPEANS ORIGINS
  • THE HOME OF THE ARYANS

文献

  • Anthony, David; Vinogradov, Nikolai (1995), “Birth of the Chariot”, Archaeology 48 (2): 36–41 .
  • Bryant, Edwin (2001), The Quest for the Origins of Vedic Culture: The Indo-Aryan Migration Debate, Oxford University Press, ISBN (0195137779) .
  • Diakonoff, Igor M. (1995), “Two Recent Studies of Indo-Iranian Origins”, Journal of the American Oriental Society 115 (3): 473-477 .
  • Fussman, G.; Kellens, J.; Francfort, H.-P.; Tremblay, X.: Aryas, Aryens et Iraniens en Asie Centrale. (2005), Institut Civilisation Indienne (ISBN 2-86803-072-6)
  • Jones-Bley, K.; Zdanovich, D. G. (eds.), Complex Societies of Central Eurasia from the 3rd to the 1st Millennium BC, 2 vols, JIES Monograph Series Nos. 45, 46, Washington D.C. (2002), (ISBN 0-941694-83-6), (ISBN 0-941694-86-0).
  • Kuz'mina, E. E. (1994), Откуда пришли индоарии? (Whence came the Indo-Aryans), Moscow: Российская академия наук (Russian Academy of Sciences) .
  • Mallory, J.P. (1989), In Search of the Indo-Europeans: Language, Archaeology, and Myth, London: Thames & Hudson .
  • Mallory, J. P. (1997), “Andronovo Culture”, Encyclopedia of Indo-European Culture, Fitzroy Dearborn .
  • 古代インド文明の謎(堀晄著、2008、吉川弘文館)(ISBN 978-4-642-05651-9)。

関連項目


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