えびはら 武司(えびはら たけし、男性、1954年6月5日[1] - )は、日本の漫画家。京都府で生まれ、8歳時に千葉県に移り住む[1]。
人物
1973年から1975年にかけて藤子スタジオに所属していた[1]。当時藤子不二雄には10人以上のアシスタントがいたが、ファンからアシスタントになったのはえびはらが初であるため、「藤子の最初の弟子」と称される[2]。ジャイアンの本名、武(たけし)や誕生日の6月15日はえびはらから取られたものであり、[3]。同著によれば、藤子は当初「ジャイアンの本名を決めると同じ名前の子がいじめられないか」を心配していたが、本名を教えてほしいというファンレターの数の多さから遂に折れ、「身近な人からとったと言えば愛される対象になるのではないか」とアシスタントのえびはらの名前を使ったという。
藤子スタジオ退社後は広告代理店に勤め[1]、1980年3月に少年チャレンジ掲載の『マチコ先生のパンティー』を発表[1]。上京後、同年5月より『まいっちんぐマチコ先生』を連載開始[1]。連載開始後は千葉県に戻る[1]。2000年に日本工学院専門学校蒲田校講師となる[注 1][1]。
代表作『まいっちんぐマチコ先生』は、アニメ化や実写映画化もされた。2001年以降は『(コミック伝説マガジン)』、『B.L.T.』などで新作を連載している[1]。
ちなみに、まいっちんぐマチコ先生を描こうと思った理由は、「藤子不二雄先生の影響を強く受けすぎて、どうしても先生の漫画と似たような話ばかりを描いてしまうため、先生が嫌いな過剰なお色気漫画に挑戦した結果、産まれた作品」とインタビューの中で語っている。[4]
なお、『西原理恵子の人生画力対決』第113回(単行本第7巻収録)で、『ドラえもん』の「源静香の入浴シーンを描いた」と語っていたとされるが、その際にえびはらが描いたのは身体だけであり、顔は藤本(のちの藤子・F・不二雄)が描いたとのことである(えびはらが関わったのは一部の回のみ。『ドラえもん』すべての回についての発言ではない。藤本は静香の身体部分にこだわり、単行本収録時に自ら描き直したこともある)。
デビューする際には「競争率が低そう」なので学研を選んだ。編集部を訪れるとたまたま編集長しかおらず、その場でデビューが決まった。
マチコ先生が4巻目で100万部を突破した際には、京王プラザホテルに藤本と安孫子の2人を招待して祝った。
主な作品
- まいっちんぐマチコ先生(1980年 - 1982年、少年チャレンジ、全8巻)
- 平成版・まいっちんぐマチコ先生
- 新・まいっちんぐマチコ先生
- 新世紀版・まいっちんぐマチコ先生
- マイコうそみたい
- マンガ広報室→フレ夫くん・アイちゃんシリーズ(都営バスインフォメーションなど、東京都交通局、広報誌「ふれあいの窓」に連載、1990年代)
- (暮しの赤信号)(1986年12月号で『人間1丁目!!』に改題してからは八代風太郎名義)
- 学研まんが 大人のひみつシリーズ 『からだのひみつ』「マチコ先生の保健体育 男らしい男のひみつ」「マチコ先生の保健体育 理想的な女性のひみつ」[5]
- 藤子スタジオアシスタント日記 まいっちんぐマンガ道 - 雑誌「本当にあった愉快な話」(竹書房)に2013年から連載した自伝的作品。
関連人物
師匠
- 藤子不二雄(とくに藤本弘)
アシスタント
その他
注
注釈
- ^ 2014年現在も同校の講師であるかは不明であるが、公式サイトのnewsによれば、2012年時点では何らかの講師の職に就いており、2013年 こざきゆう他との共著『からだのひみつ』p.88でも、「専門学校の講師」であるとされる。
出典
外部リンク
- まいっちんぐマチコ先生・えびはら武司 公式サイト
- えびはら 武司 (takeshi.ebihara.75) - Facebook
- えびはら 武司 (@machikosenseil1) - Twitter
- マチコ先生のまいっちんぐ出席簿2 - オフィシャルの新サイト。下記同様「公認オフィシャルページ」である。
- マチコ先生のまいっちんぐ出席簿 - オフィシャルの旧サイト。トップページによれば「公認サイト」。「最新情報」も第三者の視点で書かれている。ただし一部のクレジット表記はえびはらである。
- マチコ先生のホームルーム