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広尾 (渋谷区)

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広尾(ひろお)は、東京都渋谷区町名。現行行政地名は広尾一丁目から広尾五丁目。住居表示実施済み区域。郵便番号は150-0012[2]

広尾
広尾(外苑西通り)。天現寺橋交差点から広尾橋交差点を臨む。左建物は都営広尾五丁目アパート。
広尾
広尾の位置
北緯35度39分6.93秒 東経139度43分16.91秒 / 北緯35.6519250度 東経139.7213639度 / 35.6519250; 139.7213639
日本
都道府県 東京都
特別区 渋谷区
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 15,310人
等時帯 (日本標準時)
郵便番号
150-0012[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 品川

地理

東京都渋谷区の南東部に位置している。西は同区・と、南は渋谷川を境界として同区・恵比寿と、東は港区南麻布と、北は港区西麻布および南青山と接する。

二丁目や三丁目の高台などは東京都内を代表する高級住宅街の一つであるが、幹線道路沿いにはオフィスビルや店舗が多く見られる。天現寺交差点付近には、在日アメリカ海軍の施設「ニュー山王ホテル(ニューサンノー米軍センター)」がある。

地価

広尾の公示地価の平均が208万0000円/m22021年)、坪単価は687万6033円/坪であり、前年比から+0.12%の上昇であった。 基準地価の平均が234万6666円/m22020年)、坪単価は775万7575円/坪である。

歴史

 
広重『名所江戸百景』より「広尾ふる川」。広大な原っぱだった。絵は相模殿橋(四の橋)から現在の白金三丁目付近を望んだところ。橋のたもとに描かれているのは、当時料理自慢として知られた鰻の蒲焼専門店の「狐鰻」
 
『江戸名所図会』3巻より「広尾原」[4]

もともと広尾は「樋籠」(ひろう)と記され、広大な原野であったという。「広尾原」とも呼ばれた。文政から天保年間に描かれた『江戸名所図会』では、一面にススキが広がる景色が描かれている[5][4]。ススキ原の端、渋谷川山下橋には江戸時代大型の水車が設置され、山下橋の風情と合わせて、これも『江戸名所図会』に載っている[6][7]。現在の港区と渋谷区に跨る広域地名でもあった。

江戸時代初期までは下渋谷村の一部であったのが、1664年町屋の起立が許され渋谷広尾町が発足。その後、1713年に江戸町奉行の所管になった際に広尾橋を挟んで麻布側にも麻布広尾町が発足する。なお渋谷広尾町は現在の恵比寿駅前と(渋谷橋)周辺、および広尾駅周辺に点在していた。

1870年明治3年)、渋谷広尾町は渋谷広尾町・渋谷上広尾町・渋谷下広尾町に三分割され、翌1871年(明治4年)に東京府豊島郡に編入されるが、1878年(明治11年)には郡区町村編制法施行に伴い、東京府麻布区に編入される。1889年(明治22年)の市制町村制施行に伴い、渋谷広尾町・渋谷下広尾町の全域及び渋谷上広尾町と麻布広尾町の一部が南豊島郡1896年より豊多摩郡)渋谷村に編入され、同村の大字となる。一方、渋谷上広尾町の残部と麻布広尾町の大部分は東京市麻布区に編入され、1891年(明治24年)に麻布区の渋谷上広尾町は麻布広尾町に併合された。

また1911年(明治44年)に麻布区に新広尾町が起立するが、この範囲は天現寺橋から麻布十番に近い一ノ橋までの古川両岸の地域で、本来の広尾とは別物である。ただし、麻布広尾町の住人の手により起立した町といわれ、地番も麻布広尾町の続き番号となっていた。

なお、渋谷町(1909年町制施行)は1928年昭和3年)に町内の11大字を廃止して新たに66町を設置したが、広尾の名前は新設の元広尾町が受け継いだ。このため、住居表示実施以前は現在の渋谷区広尾五丁目付近が「元広尾町」、現在の港区南麻布五丁目付近が「(麻布)広尾町」であった。港区南麻布四丁目に広尾神社がある。

町名の変遷

1966年(昭和41年)7月1日住居表示が実施された[8]

実施後 実施年月日 実施前(特記なければ各字名ともその一部)
広尾一丁目 1966年7月1日 下通二丁目、下通三丁目、豊分町、永住町、上智町、中通一丁目
広尾二丁目 豊分町、永住町、羽沢町
広尾三丁目 常磐松町、羽沢町、若木町
広尾四丁目 羽沢町、宮代町
広尾五丁目 元広尾町(全域)、下通一丁目、下通二丁目、豊分町、宮代町

経済

産業

地域

土筆ヶ原

明治屋広尾ストアー等が入る広尾プラザや都営広尾五丁目アパートのある広尾五丁目から、都立広尾病院慶應幼稚舎のある恵比寿二丁目にかけての平坦地一帯は、かつてツクシがたくさん生えていたことから「土筆ヶ原」(つくしがはら)と呼ばれ、江戸時代には 『江戸名所図会』の挿絵にも見られるように庶民の遊歩散策の場所となっていた[10][11]

現在、広尾五丁目の商店街(広尾商店街)となっている辺りの町は正徳3年(1713年)に町並地となり(町方)支配となった。町は1945年(昭和20年)のアメリカ軍による東京大空襲でも被災を免れて明治大正の建物が多く建ち、近年まで昔の面影が残されていた[10]。土筆ヶ原の中心に当たる外苑西通り天現寺交差点近くに建つ都営広尾五丁目アパートの場所には、かつて都電の車庫が置かれていた[10]

貧民窟

日本大学教授・井上貞蔵は自身の著書『一経済学徒の断草』の中で、広尾町内の貧民部落を指摘している[12]

施設

大使館その他外国施設

以下、南麻布や元麻布、西麻布などに点在している。

世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
広尾一丁目 1,851世帯 2,871人
広尾二丁目 968世帯 2,050人
広尾三丁目 1,434世帯 3,025人
広尾四丁目 2,249世帯 4,111人
広尾五丁目 2,072世帯 3,253人
8,574世帯 15,310人

小・中学校の学区

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[13]

丁目 番地 小学校 中学校 調整区域による変更可能校
広尾一丁目 9〜10番 渋谷区立臨川小学校 渋谷区立広尾中学校
その他 渋谷区立広尾小学校
広尾二丁目 1~9番
その他 渋谷区立臨川小学校
広尾三丁目 1番
4~7番
渋谷区立常磐松小学校 渋谷区立鉢山中学校 渋谷区立広尾中学校
その他 渋谷区立広尾小学校 渋谷区立広尾中学校
広尾四丁目 全域 渋谷区立臨川小学校
広尾五丁目 全域

交通

港区南麻布との境界上に東京メトロ日比谷線広尾駅がある(所在地は港区側)。一丁目と東京都道416号古川橋二子玉川線(駒沢通り)沿いの二丁目、そして境界部分の三丁目は日比谷線およびJR線の恵比寿駅が最寄駅となる。

道路は、地域南部を明治通りが横断している。東の南麻布との境界の一部は東京都道418号北品川四谷線(外苑西通り)。首都高速道路3号渋谷線高樹町出入口が最寄となる。

出身・ゆかりのある人物

名所・旧跡

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b “住民基本台帳・外国人登録による人口”. 渋谷区 (2017年12月1日). 2017年12月22日閲覧。
  2. ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月30日閲覧。
  3. ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月22日閲覧。
  4. ^ a b 江戸名所図会 1927, pp. 56–57.
  5. ^ 川田逸『江戸名所図会を読む』、東京堂出版、平成19年第9版,130頁。
  6. ^ 川田逸『江戸名所図会を読む』、東京堂出版、平成19年第9版、132頁。
  7. ^ 江戸名所図会 1927, pp. 58–59.
  8. ^ 1966年(昭和41年)11月30日自治省告示第176号「住居表示が実施された件」
  9. ^ 編集部だより 柴田書店 2010年10月26日
  10. ^ a b c 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p284-5
  11. ^ 江戸名所図会 1927, pp. 60–61.
  12. ^ 『一経済学徒の断草』112-113頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2017年7月12日閲覧。
  13. ^ “通学区域”. 渋谷区. 2017年12月22日閲覧。[]

参考文献

  • 井上貞蔵『一経済学徒の断草』邦光堂、1927年。
  • 斎藤長秋 編「巻之三 天璣之部 廣尾原/廣尾水車/土筆ヶ原」『江戸名所図会』 2巻、有朋堂書店〈有朋堂文庫〉、1927年、56-61頁。(NDLJP):1174144/33。 

関連項目

外部リンク

  • 渋谷区
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