1990年のヤクルトスワローズ(1990ねんのヤクルトスワローズ)では、1990年のヤクルトスワローズの動向をまとめる。
1990年のヤクルトスワローズ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ5位 | |
58勝72敗 勝率.446[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都新宿区 |
球場 | 明治神宮野球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松園尚巳 |
経営母体 | ヤクルト本社 |
監督 | 野村克也 |
« 1989 1991 » |
この年のヤクルトスワローズは、野村克也監督の1年目のシーズンである。
概要
1990年代のヤクルト黄金時代の礎を築いた関根潤三監督の勇退を受けて、「ID野球」を標榜する野村克也が新監督に就任。1978年の初優勝以降Bクラスに低迷するチームの体質改善のため、野村新監督はID野球をスローガンとしてチームの再建に着手。野村監督は関根前監督の「若手中心の野球」を継承しつつドラフト2位で入団の古田敦也を正捕手に起用し、それまでの正捕手だった秦真司や控え捕手の飯田哲也を外野にコンバートしてシーズンに臨んだ。しかし、前年優勝の巨人との開幕戦で開幕投手の内藤尚行が篠塚和典に疑惑の本塁打を打たれてチームもサヨナラ負けすると、開幕2戦目はリリーフ投手の木田優夫にサヨナラ本塁打を打たれるなど最悪のスタート。チームも5月にはBクラスに定着し、「野村監督でもヤクルトの再建は無理」の声が世間から出始めた。6月以降は立ち直るものの首位独走の巨人の背中は遠く、9月8日には若きエースの川崎憲次郎が吉村禎章に優勝決定サヨナラ本塁打を浴び、7勝19敗と大きく負け越すなど終始巨人を苦手にし続けた。最終的には首位の巨人から30ゲーム、2位広島にも8ゲーム離され野村監督の1年目は5位で終わった。シーズン終了後栗山英樹が29歳の若さで現役を引退した。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 大洋 | 2.5 | 大洋 | 2.5 | 大洋 | 5.5 | 中日 | 12.0 | 広島 | 16.5 | 広島 | 22.0 |
3位 | 阪神 | 4.5 | 広島 | 8.0 | 広島 | 8.0 | 大洋 | 12.5 | 大洋 | 18.0 | 大洋 | 24.0 |
4位 | ヤクルト | 5.5 | 阪神 | 9.5 | 中日 | 9.0 | 広島 | 13.5 | 中日 | 18.5 | 中日 | 26.0 |
5位 | 中日 | 7.0 | ヤクルト | 9.5 | ヤクルト | 10.5 | ヤクルト | 16.0 | ヤクルト | 24.0 | ヤクルト | 30.0 |
6位 | 広島 | 7.5 | 中日 | 阪神 | 12.0 | 阪神 | 18.0 | 阪神 | 31.0 | 阪神 | 36.0 |
オールスターゲーム1990
詳細は「1990年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 監督推薦
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ドラフト
詳細は「1990年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照