1984年の読売ジャイアンツ(1984ねんのよみうりジャイアンツ)では、1984年の読売ジャイアンツの動向をまとめる。
1984年の読売ジャイアンツ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ3位 | |
67勝54敗9分 勝率.554[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 後楽園球場 |
球団組織 | |
オーナー | 正力亨 |
経営母体 | 読売新聞社 |
監督 | 王貞治 |
« 1983 1985 » |
この年の読売ジャイアンツは、王貞治監督の1年目のシーズンである。
概要
球団創設50周年を迎えたこの年、前任の藤田元司のもとで助監督を務めた王監督が就任。チームはエクスポズからウォーレン・クロマティを獲得し開幕前の下馬評では優勝の本命とされていた。しかし開幕10試合で1勝しかできず、ファンの期待を裏切る形となった。結局4月は5勝10敗5分と苦戦。5月に5連勝、6月に7連勝するなど巻き返し、8月下旬から10連勝で自力優勝の可能性を残したものの9月15日と16日の広島戦で長嶋清幸に2試合連続サヨナラ本塁打を浴びて自力優勝が消滅。9月23日から5連勝するも時すでに遅く、優勝の広島と8.5ゲーム差の3位でシーズンを終えた。投手陣は先発3本柱の江川卓、西本聖、定岡正二が前年に続いてローテを守ったものの定岡は前年の腰痛の影響で2桁敗戦を喫して9月からはローテから外れ、前年新人王の槙原寛己も負け越した。リリーフも角三男・鹿取義隆のダブルストッパーに加えて後半から斎藤雅樹が台頭し、チーム防御率は広島に次ぐリーグ2位の3.66を記録した。打撃陣では篠塚利夫が初の首位打者に輝き、不振の原辰徳に代わり途中から4番に入った中畑清も自身最多の31本塁打を記録、新外国人のクロマティも期待通りの活躍を見せ、中日に次いでリーグ2位の186本塁打を記録した。チームは優勝の広島に12勝12敗2分と健闘したが、敵地・広島で苦手にし続けた。2位の中日には2戦目から同一カード14連敗を喫するなど8勝17敗1分と苦戦し、中日躍進の引き立て役になった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- | 中日 | -- | 中日 | -- | 広島 | -- |
2位 | 中日 | 5.0 | 中日 | 0.5 | 中日 | 0.5 | 広島 | 1.0 | 広島 | 1.0 | 中日 | 3.0 |
3位 | 阪神 | 6.0 | 阪神 | 5.5 | 巨人 | 9.5 | 巨人 | 9.0 | 巨人 | 9.5 | 巨人 | 8.5 |
4位 | 大洋 | 7.5 | 大洋 | 8.0 | 阪神 | 10.5 | 阪神 | 11.0 | 阪神 | 18.5 | 阪神 | 23.0 |
5位 | 巨人 | 8.5 | 巨人 | 8.0 | 大洋 | 14.5 | 大洋 | 20.0 | ヤクルト | 21.5 | ヤクルト | 25.0 |
6位 | ヤクルト | 9.0 | ヤクルト | 14.0 | ヤクルト | 19.0 | ヤクルト | 22.0 | 大洋 | 24.5 | 大洋 | 30.5 |
オールスターゲーム1984
詳細は「1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
この節の加筆が望まれています。 |
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照