1984年のヤクルトスワローズ(1984ねんのヤクルトスワローズ)では、1984年のヤクルトスワローズの動向をまとめる。
1984年のヤクルトスワローズ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ5位 | |
51勝71敗8分 勝率.418[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都新宿区 |
球場 | 明治神宮野球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松園尚巳 |
経営母体 | ヤクルト本社 |
監督 | 武上四郎(4月26日まで) 中西太 (4月28日-5月24日:監督代行) 土橋正幸 (5月25日-6月14日:監督代行の代行 6月15日から監督) |
« 1983 1985 » |
この年のヤクルトスワローズは、武上四郎監督の5年目のシーズンである。
概要
2年連続最下位からの巻き返しを狙うチームは東海大学の高野光をドラフト1位で獲得して投手陣の強化を図り、また東映OBの土橋正幸を新しく投手コーチに招聘してチーム再建を図った。開幕2連勝と好スタートを切るも、その直後から負けが込むようになり4月18日から8連敗。4月26日には武上監督が休養し中西太ヘッドコーチが監督代行に就任。中西監督代行でチーム再建を図るも、5月5日から8連敗で借金地獄に陥り中西監督代行が辞意。5月25日には土橋投手コーチが監督代行に就任。武上監督に代わって土橋新監督が正式に就任したのは6月15日で、1年間で代行も含めて3回も監督が交代したチームは投手陣の不振もあり前半戦最下位で終了。8月以降大洋を抜いて5位でシーズンを終え、辛うじて3年連続の最下位は免れた。投手陣はルーキー高野がローテ入りするも、ベテラン松岡弘や井本隆が衰えたこともありチーム防御率が最下位の4.76と振るわず、最多被本塁打・最多失点を喫するなど完全に崩壊。打撃陣も若松勉やボビー・マルカーノが奮闘するも、前年引退した大杉勝男の穴を埋めることはできずチーム本塁打は101本で5位に終わった。対戦成績は優勝の広島も含め上位陣に大きく負け越し、4位阪神に15勝11敗と勝ち越すのがやっとだった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 広島 | -- | 広島 | -- | 広島 | -- | 中日 | -- | 中日 | -- | 広島 | -- |
2位 | 中日 | 5.0 | 中日 | 0.5 | 中日 | 0.5 | 広島 | 1.0 | 広島 | 1.0 | 中日 | 3.0 |
3位 | 阪神 | 6.0 | 阪神 | 5.5 | 巨人 | 9.5 | 巨人 | 9.0 | 巨人 | 9.5 | 巨人 | 8.5 |
4位 | 大洋 | 7.5 | 大洋 | 8.0 | 阪神 | 10.5 | 阪神 | 11.0 | 阪神 | 18.5 | 阪神 | 23.0 |
5位 | 巨人 | 8.5 | 巨人 | 8.0 | 大洋 | 14.5 | 大洋 | 20.0 | ヤクルト | 21.5 | ヤクルト | 25.0 |
6位 | ヤクルト | 9.0 | ヤクルト | 14.0 | ヤクルト | 19.0 | ヤクルト | 22.0 | 大洋 | 24.5 | 大洋 | 30.5 |
オールスターゲーム1984
詳細は「1984年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 監督推薦
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
若松勉 | 外野手 | 4年ぶり9度目 |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選出なし |
ドラフト
詳細は「1984年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照