1981年のヤクルトスワローズ(1981ねんのヤクルトスワローズ)では、1981年のヤクルトスワローズの動向をまとめる。
1981年のヤクルトスワローズ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ4位 | |
56勝58敗16分 勝率.491[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都新宿区 |
球場 | 明治神宮野球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松園尚巳 |
経営母体 | ヤクルト本社 |
監督 | 武上四郎 |
« 1980 1982 » |
この年のヤクルトスワローズは、武上四郎監督の2年目のシーズンである。
概要
1979年・1980年と近鉄のリーグ連覇に大きく貢献したチャーリー・マニエルが3年ぶりにチームに復帰。外野陣は主力打者の若松勉、俊足好守のジョン・スコットそしてマニエルがレギュラーとなり、外野陣からあふれた杉浦享は一塁で大杉勝男と併用という贅沢な悩みを抱えた。しかし開幕を迎えると、肝心のマニエルの調子が一向に上がらず、4月24日の15試合目にようやく1号本塁打が出るなど、12本塁打にとどまり期待を裏切った。また、若松が4月22日に右肩の靭帯を損傷し戦列を離脱、さらにスコットも5月26日の阪神戦で甲子園のフェンスに激突し左膝の靭帯を損傷しこれまた離脱となり、外野陣は大幅に戦力ダウン。代わりに出番が大幅に増えた控え外野手の青木実が盗塁王に輝き、大杉も自己ベストの打率.343をマークし2000本安打も達成するなど活躍したが、7月と9月に6引き分けするなど接戦に弱いチームは一度も優勝争いに絡めず4位で終了(16引き分けはリーグ1位)。シーズン終了後に安田猛が現役を引退した。投手陣はベテラン松岡弘が12勝をあげたものの、前年2位躍進の原動力となった鈴木康二朗と井原慎一朗が9勝止まりで、梶間健一と尾花高夫もそれぞれ6勝に終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 中日 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 巨人 | 1.5 | 中日 | 6.0 | ヤクルト | 7.5 | 阪神 | 9.0 | ヤクルト | 9.0 | 広島 | 6.0 |
3位 | 広島 | 6.0 | 広島 | 6.5 | 阪神 | 8.5 | ヤクルト | 12.0 | 阪神 | 11.5 | 阪神 | 8.0 |
4位 | ヤクルト | 8.0 | ヤクルト | 9.0 | 広島 | 9.0 | 中日 | 12.5 | 広島 | 12.5 | ヤクルト | 13.5 |
5位 | 阪神 | 8.0 | 阪神 | 10.0 | 中日 | 10.0 | 広島 | 12.5 | 中日 | 13.5 | 中日 | 16.0 |
6位 | 大洋 | 9.5 | 大洋 | 13.5 | 大洋 | 大洋 | 17.0 | 大洋 | 22.5 | 大洋 | 31.5 |
オールスターゲーム1981
詳細は「1981年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン |
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選出なし |
ダイヤモンドグラブ賞 |
選出なし |
ドラフト
詳細は「1981年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照