1981年の広島東洋カープ(1981ねんのひろしまとうようカープ)では、1981年における広島東洋カープの動向をまとめる。
1981年の広島東洋カープ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ2位 | |
67勝54敗9分 勝率.554[1] | |
本拠地 | |
都市 | 広島県広島市 |
球場 | 広島市民球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 松田耕平 |
経営母体 | 松田家(東洋工業創業者一族) |
監督 | 古葉竹識 |
キャッチフレーズ | |
3A BASEBALL - Active Action Appeal | |
« 1980 1982 » |
この年の広島東洋カープは、古葉竹識監督の7年目のシーズンである。
概要
3連覇のかかったシーズンだが、オフにトレードで抑えの江夏豊を放出した影響が心配された。開幕を前に2年連続盗塁王の高橋慶彦が怪我で離脱し、またレギュラー定着を期待された山崎隆造がオープン戦で外野フェンスに激突して1年を棒に振るなど故障者続出のチームはスタートダッシュに失敗。5月中旬頃に高橋慶が戦列に復帰し、チームの成績が上向いて来た頃には既に巨人が頭一つリードしていた。6月以降は、首位を快走する巨人とは対照的に、広島を始めとする他球団が5割ライン上で苦戦する状況が2か月ほど続いた。8月に入り衣笠祥雄が2番に固定されるようになってから上昇傾向になり、9月以降21勝6敗と貯金15を稼いでようやく2位に浮上したが時すでに遅く、3連覇はならなかった。打撃陣では本塁打と打点の二冠に輝いた山本浩二を始めジム・ライトル、衣笠が30本塁打を記録するなどチーム打率、本塁打はリーグ1位だったが、出遅れた高橋慶が14盗塁に終わるなどチーム盗塁数はリーグ最下位。投手陣では16勝の北別府学を始め2ケタ勝利が4人出た一方で江夏との交換で加入した高橋直樹がわずか2勝と期待を裏切り、江夏に代わり抑えに回った大野豊も11セーブにとどまった。シーズン終了後、かつてのエース・安仁屋宗八がこの年限りで引退した。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 中日 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 巨人 | 1.5 | 中日 | 6.0 | ヤクルト | 7.5 | 阪神 | 9.0 | ヤクルト | 9.0 | 広島 | 6.0 |
3位 | 広島 | 6.0 | 広島 | 6.5 | 阪神 | 8.5 | ヤクルト | 12.0 | 阪神 | 11.5 | 阪神 | 8.0 |
4位 | ヤクルト | 8.0 | ヤクルト | 9.0 | 広島 | 9.0 | 中日 | 12.5 | 広島 | 12.5 | ヤクルト | 13.5 |
5位 | 阪神 | 8.0 | 阪神 | 10.0 | 中日 | 10.0 | 広島 | 12.5 | 中日 | 13.5 | 中日 | 16.0 |
6位 | 大洋 | 9.5 | 大洋 | 13.5 | 大洋 | 大洋 | 17.0 | 大洋 | 22.5 | 大洋 | 31.5 |
オールスターゲーム1981
詳細は「1981年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- この年の広島は監督推薦による選出のみであった。
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
山本浩二 | 外野手 | 5年連続6度目 |
ライトル | 初受賞 | |
ダイヤモンドクラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
山本浩二 | 外野手 | 10年連続10度目 |
ライトル | 4年連続4度目 |
ドラフト
詳細は「1981年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照