1973年のロッテオリオンズでは、1973年のロッテオリオンズの動向についてまとめる。
1973年のロッテオリオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ3位 | |
70勝49敗11分 勝率.588[1] | |
前期2位 | 35勝27敗3分 勝率.565[1] |
後期2位 | 35勝22敗8分 勝率.614[1] |
本拠地 | |
都市 | 宮城県(暫定保護地域) |
球場 | 特定本拠地なし (主に宮城球場を使用) |
球団組織 | |
オーナー | 重光武雄 |
経営母体 | ロッテ |
球団社長 | (松井静郎) |
監督 | 金田正一 |
« 1972 1974 » |
この年のロッテオリオンズは、金田正一監督の1年目のシーズンである。
概要
1971年以来のAクラス復帰と3年ぶりの優勝をめざすロッテは、前年10月から就任した重光武雄オーナー(ロッテ本社社長)が三顧の礼をもって国鉄、巨人で活躍した往年の400勝投手・金田正一を監督に招聘し5位に終わったチームの再建に着手。しかし前シーズンオフに、東京スタジアムの買い取りを球団が拒否したことから、このシーズンから特定の本拠地を持たないいわゆる「ジプシー球団」と呼ばれる状況に陥ったため、本拠地不在のまま他球団の本拠地を借りて公式戦を行った。本拠地不在ながらも金田新監督のもと、チームは前期は南海、後期は阪急とそれぞれ熾烈な首位争いを演じたが、惜しくも優勝はならなかった(この年は前期優勝ながらも勝利数3位の南海が後期優勝の阪急をプレーオフで破り優勝)。しかし2位阪急の77勝に次ぐ70勝をあげ、翌1974年の優勝と24年ぶりの日本一につながった。
チーム成績
レギュラーシーズン
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
優勝 | 南海ホークス | 68 | 58 | 4 | .540 | --- |
2位 | 阪急ブレーブス | 77 | 48 | 5 | .616 | -9.5 |
3位 | ロッテオリオンズ | 70 | 49 | 11 | .588 | -5.5 |
4位 | 太平洋クラブライオンズ | 59 | 64 | 7 | .480 | 7.5 |
5位 | 日拓ホームフライヤーズ | 55 | 69 | 6 | .444 | 12.0 |
6位 | 近鉄バファローズ | 42 | 83 | 5 | .336 | 25.5 |
*優勝はプレーオフで決定。3位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
オールスターゲーム1973
詳細は「1973年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
- 取り消し線は出場辞退
できごと
- 5月3日 - 対太平洋3回戦(川崎球場)で、太平洋のファンからグラウンドに物を投げ込まれる騒動が起きる(ライオンズとの遺恨の勃発)[2]。
- 10月10日 - 八木沢荘六が対太平洋戦(県営宮城球場)において、史上13人目(パ・リーグ6人目)の完全試合を達成。
- 10月17日 - パ・リーグのオーナー懇談会が大阪市内のホテルで開かれ、日拓のオーナー西村昭孝が「16日にロッテの重光社長と会い、ロッテと日拓が合併することで合意した」と発言[3]。
詳細は「プロ野球再編問題 (1973年)」を参照
選手・スタッフ
表彰選手
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
成田文男 | 投手 | 初受賞 |
有藤通世 | 三塁手 | 5年連続5度目 |
ダイヤモンドグラブ賞 | ||
選手名 | ポジション | 回数 |
成田文男 | 投手 | 初受賞 |
有藤通世 | 三塁手 | 2年連続2度目 |
弘田澄男 | 外野手 | 初受賞 |
ドラフト
詳細は「1973年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照