1973年の太平洋クラブライオンズでは、1973年の太平洋クラブライオンズの動向をまとめる。
1973年の太平洋クラブライオンズ | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ4位 年間成績:59勝64敗7分 勝率.480 後期5位:27勝34敗4分 勝率.443 前期4位:32勝30敗3分 勝率.516 | |
本拠地 | |
都市 | 福岡県福岡市 |
平和台野球場 | |
球団組織 | |
オーナー | 中村長芳 |
経営母体 | 福岡野球 |
監督 | 稲尾和久 |
« 1972 1974 » |
この年の太平洋クラブライオンズは、稲尾和久監督の4年目のシーズンである。
概要
1969年オフの黒い霧事件でチームは戦力ダウンに陥り、親会社の西日本鉄道が経営権を福岡野球へ譲渡。新球団の中村オーナーはネーミングライツを用いてゴルフ場開発を手掛ける太平洋クラブがスポンサーとなり、太平洋クラブの親会社である平和相互銀行の人脈で資金にゆとりのできたライオンズは戦力低下を補うべく、各球団からの余剰選手を無償や金銭トレードでそれぞれ獲得。こうしてスタートした新生太平洋は、心機一転背番号を24から81に変更した稲尾監督の好采配もあり開幕から好調で、前期の優勝が期待された。しかし、6月に阪急が猛反撃すると勝ち越しながら4位に転落して終了。後期はAクラス入りが期待されたものの、開幕から阪急が開幕ダッシュに成功するとそれを追いかける展開。結局前期優勝の南海・日拓の後塵を拝して5位に終わった。借金は1ケタに減って4位に食い込んだが後期の負け越しが響き、稲尾監督の悲願であるAクラス入りはならなかった。
チーム成績
レギュラーシーズン
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順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
優勝 | 南海ホークス | 68 | 58 | 4 | .540 | --- |
2位 | 阪急ブレーブス | 77 | 48 | 5 | .616 | -9.5 |
3位 | ロッテオリオンズ | 70 | 49 | 11 | .588 | -5.5 |
4位 | 太平洋クラブライオンズ | 59 | 64 | 7 | .480 | 7.5 |
5位 | 日拓ホームフライヤーズ | 55 | 69 | 6 | .444 | 12.0 |
6位 | 近鉄バファローズ | 42 | 83 | 5 | .336 | 25.5 |
*優勝はプレーオフで決定。3位以下はプレーオフの結果に関係なく勝率順で決定
オールスターゲーム1973
詳細は「1973年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
リーグ・リーダー |
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受賞者なし |
ベストナイン |
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選出なし |
ダイヤモンドグラブ賞 |
選出なし |
ドラフト
詳細は「1973年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照