1968年の南海ホークスでは、1968年の南海ホークスの動向をまとめる。
1968年の南海ホークス | |
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成績 | |
パシフィック・リーグ2位 | |
79勝51敗6分 勝率.608[1] | |
本拠地 | |
都市 | 大阪府大阪市 |
球場 | 大阪球場 |
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球団組織 | |
オーナー | 川勝傳(6月から) |
経営母体 | 南海電気鉄道 |
監督 | 鶴岡一人 |
« 1967 1969 » |
この年の南海ホークスは、鶴岡一人監督の23年目である。
概要
南海一筋で22年間指揮を執ってきた鶴岡監督は「チームをもう一度優勝させる」と宣言し、アメリカからマーティ・キーオを獲得。またドラフトでも高畠導宏が入団するなどして戦力を一新したが、前年23年ぶりのBクラス転落の影響もあり4月は近鉄に6ゲーム差を離された。それでも不動の4番野村克也やこの年31勝をあげた皆川睦雄の活躍で5月以降順位を上げていくと、阪急とシーズン終盤までマッチレースを展開(皆川以降、後身のダイエー→ソフトバンクで30勝をあげた投手はいない)。10月11日の近鉄戦に勝てば優勝だったが、近鉄のエース・鈴木啓示に打線が沈黙し痛恨の敗戦。結局2位で力尽き、鶴岡監督はシーズン終了後川勝傳オーナー(この年南海電鉄社長に就任)に辞表を提出。最終的に勇退が了承され、鶴岡は23年間の監督生活に別れを告げた。後任の監督には1967年までサンケイの監督を務め、この年からヘッドコーチとなっていた飯田徳治が就任した。この年入団のキーオはケント・ハドリの穴埋めとして期待され17本塁打を放つものの打率が伸びず、鶴岡監督の勇退とともに退団した。対戦成績では5位の西鉄と最下位の東映に大きく勝ち越したものの、前述の近鉄には五分で終わった。
チーム成績
レギュラーシーズン
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 9月終了時 | 最終成績 | |||||||
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1位 | 近鉄 | -- | 近鉄 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- | 阪急 | -- |
2位 | 阪急 | 4.0 | 阪急 | 1.5 | 南海 | 3.0 | 南海 | 1.5 | 南海 | 2.0 | 南海 | 4.0 | 南海 | 1.0 |
3位 | 東映 | 5.5 | 南海 | 近鉄 | 3.5 | 東京 | 3.5 | 東京 | 6.5 | 東京 | 10.0 | 東京 | 13.0 | |
4位 | 南海 | 6.0 | 東京 | 4.0 | 東京 | 5.0 | 近鉄 | 7.0 | 近鉄 | 14.5 | 西鉄 | 21.0 | 近鉄 | 23.0 |
5位 | 西鉄 | 7.0 | 東映 | 5.0 | 東映 | 7.5 | 東映 | 13.0 | 西鉄 | 17.0 | 近鉄 | 22.0 | 西鉄 | 24.0 |
6位 | 東京 | 7.5 | 西鉄 | 6.0 | 西鉄 | 11.0 | 西鉄 | 14.0 | 東映 | 23.0 | 東映 | 27.0 | 東映 | 29.0 |
オールスターゲーム1968
詳細は「1968年のオールスターゲーム (日本プロ野球)」を参照
できごと
選手・スタッフ
表彰選手
ドラフト
詳細は「1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」を参照