黄 善洪(ファン・ソノン、ファン・ソンホン、황선홍、1968年7月14日 - )は、大韓民国出身の同国代表の元サッカー選手。サッカー指導者。本貫は平海黄氏[1]。ニックネームはファンセ(황새、コウノトリ)。
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名前 | ||||||
愛称 | ファンセ | |||||
カタカナ | ファン・ソノン | |||||
ラテン文字 | Hwang Sun-Hong | |||||
ハングル | 황선홍 | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 大韓民国 | |||||
生年月日 | 1968年7月14日(54歳) | |||||
出身地 | 忠清南道礼山郡 | |||||
身長 | 183cm | |||||
体重 | 79kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1987-1990 | 建国大学校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1991-1992 | バイエル・レバークーゼン II | |||||
1992-1993 | ヴッパーターラーSVボルシア | 9 | (3) | |||
1993-1998 | 浦項スティーラース | 52 | (26) | |||
1998-1999 | セレッソ大阪 | 36 | (30) | |||
2000 | 水原三星ブルーウィングス | 0 | (0) | |||
2000 | → 柏レイソル (loan) | 0 | (0) | |||
2000-2002 | 柏レイソル | 34 | (12) | |||
2002 | 全南ドラゴンズ | 0 | (0) | |||
通算 | 131 | (71) | ||||
代表歴2 | ||||||
1996 | 韓国 U-23 | 4 | (0) | |||
1988-2002 | 韓国 | 103 | (50) | |||
監督歴 | ||||||
2007-2010 | 釜山アイパーク | |||||
2011-2015 | 浦項スティーラース | |||||
2016-2018 | FCソウル | |||||
2019 | 延辺富徳 | |||||
2020 | 大田ハナシチズン | |||||
2021- | 韓国 U-23 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。2016年9月23日現在。 2. 2016年9月23日現在。 (■テンプレート)((■ノート) ■解説)■サッカー選手pj |
ボレーシュート、ヘディングなど浮き球に対するダイレクトシュートに優れ、多くのゴールを挙げた。ポストプレーの技術も高かった [2] 。日本での登録名は「ファン・ソンホン」。
略歴
クラブ経歴
大学卒業後、ドイツ下部リーグでプロキャリアをスタートさせ、1993年にドラフトで完山ピューマ(現・全北現代モータース)に指名されるが、1対5という異例のトレードで浦項スティーラースに入団。
1998年セカンドステージからセレッソ大阪に移籍、第6節の横浜マリノス戦でJリーグ初ゴール[3]。翌1999年は、3月20日、第3節のベルマーレ平塚戦で1999年初ゴール[4]、セカンドステージ9節のヴィッセル神戸戦でハットトリックを決め[5]、またガンバ大阪とのダービーではファーストステージ、セカンドステージ共にゴールを挙げるなど、24ゴールを挙げて得点王のタイトルを獲得している。(同年は11アシストを記録するなど、週刊サッカーマガジン選出の年間ベストイレブンにも選ばれた[6] 。)韓国人選手が得点王に輝いたのはJリーグ史上初であり、2015年終了時点でもJ1、J2、J3を含めてこの時の黄ただ一人である。同年にはJリーグたらみオールスターサッカー に先発出場し、1ゴールを決めた[7]。セレッソに在籍した外国籍選手でリーグ戦通算最多得点記録保持者(36試合/30得点)。
2000年に韓国に復帰したが思うように活躍できず、2000年5月にサーシャ・ドラクリッチとのトレードで、Jリーグ2ndステージ途中より柏レイソルに加入[2]、11月18日の川崎フロンターレ戦での決勝ゴール[8]は移籍後初ゴールとなった。同じ韓国の洪明甫、柳想鐵とプレー。2シーズン半を過ごすが、怪我や韓国代表での活動を優先させたことも影響し、セレッソ時代の様な活躍が出来ず、2002年には負傷でほとんどプレーが出来ず、シーズン途中に契約解除された[9]。その後全南ドラゴンズに移籍したが、怪我が直らず2003年2月に引退した。
代表経歴
韓国代表としては洪明甫と共に1990年から2002年まで4大会連続でFIFAワールドカップにメンバー入りした。1988年、アジアカップの日本代表戦で韓国代表デビューし初得点をマークした。1990年のイタリア大会では2試合に出場した。1994年大会ではドイツ戦でゴールを決めるが[10]、ボリビア戦では何度か決定機を逃がした。1998年大会は試合に出場しなかったが、2002年大会では初戦のポーランド戦で韓国の快進撃をスタートさせる先制ゴールを決めた。1994年のアジア大会、グループリーグのネパール戦では一人で8ゴールを挙げ[11]11-0での勝利に貢献、同大会では日本戦でも2ゴールを挙げるなど、大会得点王を獲得した。
自分の最後のワールドカップとなった2002年大会では一回戦のポーランド戦で先制点を決め、韓国サッカー初の大会勝利にも貢献した。同年11月に行われたブラジル戦をもって洪明甫と共に代表から引退したが、それにつれ現役にも引退した。
指導者経歴
引退後は指導者の道へ進み、2007年からは釜山アイパークの監督に就任。
2011年からはかつて在籍した浦項スティーラースの監督を務めた。2012年の韓国FAカップ優勝が監督として初タイトルとなった。
2013年は初のリーグ戦優勝を達成。2015年シーズン終了後退任。
2016年、FCソウルの監督に就任しKリーグクラシックの優勝を果たしたが、2018年4月成績不振で辞任。
2018年10月、中国甲級の朝鮮人系クラブである延辺富徳足球倶楽部の監督に就任するが、シーズン開始を待たずにクラブが税金未納などで破綻。公式戦では1試合も指揮することはなく、シーズン前の韓国キャンプでのみの指導に終わった。[12]
所属クラブ
- ユース経歴
- 龍文中学校
- (龍文高等学校)
- 建国大学校
- プロ経歴
- 1991年 バイエル・レバークーゼン・アマチュア
- 1992年-1993年 ヴッパーターラーSVボルシア
- 1993年-1998年 浦項アトムス/浦項スティーラース
- 1998年-1999年 セレッソ大阪
- 2000年 水原三星ブルーウィングス
- 2000年5月-2002年 柏レイソル
- 2002年-2003年2月 全南ドラゴンズ
タイトル
- アジア大会 1990 3位
- Jリーグ得点王 1999
- Jリーグベストイレブン 1999
- 広島アジア大会得点王 (11ゴール) 1994
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | (リーグ杯) | (オープン杯) | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | レバークーゼン | ブンデス | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||
1992-93 | ヴッパーターラーSV | 2. ブンデス | 9 | 3 | - | - | 9 | 3 | |||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
1993 | 浦項 | K | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
1994 | 14 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 5 | |||
1995 | 24 | 11 | 2 | 0 | 0 | 0 | 26 | 11 | |||
1996 | 13 | 10 | 0 | 0 | 5 | 3 | 18 | 13 | |||
1997 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | |||
1998 | 1 | 0 | 2 | 2 | 0 | 0 | 3 | 2 | |||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1998 | C大阪 | 35 | J | 11 | 6 | - | 0 | 0 | 11 | 6 | |
1999 | 18 | J1 | 25 | 24 | 2 | 3 | 0 | 0 | 27 | 27 | |
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | 水原 | K | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
2000 | 柏 | 31 | J1 | 6 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 7 | 1 |
2001 | 18 | 21 | 10 | 4 | 0 | 0 | 0 | 25 | 10 | ||
2002 | 7 | 1 | 0 | 0 | - | 7 | 1 | ||||
韓国 | リーグ戦 | リーグ杯 | FA杯 | 期間通算 | |||||||
2002 | 全南 | K | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
通算 | ドイツ | ブンデス | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
ドイツ | 2. ブンデス | 9 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 9 | 3 | ||
韓国 | K | 52 | 26 | 12 | 5 | 1 | 0 | 65 | 31 | ||
日本 | J1 | 70 | 42 | 7 | 3 | 0 | 0 | 77 | 45 | ||
総通算 | 131 | 71 | 19 | 8 | 1 | 0 | 151 | 79 |
代表歴
- 韓国代表 (1988年-2002年、103試合50得点)
- 1988年 AFCアジアカップ
- 1990年 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 1994年 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 1998年 FIFAワールドカップ (グループリーグ敗退)
- 2002年 FIFAワールドカップ (4位)
指導歴
出典
- ^ “종가 20. 울진 평해황씨 '해월종택'” (朝鮮語). 경북일보 - 굿데이 굿뉴스 (2016年6月19日). 2023年2月9日閲覧。
- ^ a b (プレスリリース)柏レイソル、2000年5月10日。 オリジナルの2001年7月20日時点におけるアーカイブ2017年10月31日閲覧。 。
- ^ “ファンソンホン”. data-jleague. 2022年5月21日閲覧。
- ^ “1999Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第3節”. j-league. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “1999 Jリーグ 2ndステージ 9節”. data-jleague. 2022年5月22日閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 1999年12月29日 no.743 p.22-25 ベースボールマガジン社
- ^ “1999 Jリーグたらみオールスターサッカー”. data.j-league2020年5月3日閲覧。
- ^ “2000Jリーグ ディビジョン1 2ndステージ 第13節”. j-league. 2020年4月17日閲覧。
- ^ “元韓国代表ファンソンホンの悔恨。国のために戦い、次はレイソルと”. number.bunshun.jp2020年7月3日閲覧。
- ^ “ファンソンホン”. teansfermarket2020年7月3日閲覧。
- ^ “1994 Asian Games”. www.rsssf2020年7月3日閲覧。
- ^ 延辺球団解体、行き場のないファン・ソンホン監督(韓国語)
関連項目
外部リンク
- 黄善洪 - Olympedia (英語)
- - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ (英語)
- 黄善洪 - National-Football-Teams.com (英語)
- 黄善洪 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- 黄善洪 - Transfermarkt.comによる指導者データ (英語)
- - FIFA主催大会成績 (英語)
- 黄善洪 - J.League Data Siteによる選手データ
- 黄善洪 - K League (朝鮮語)
- 公式サイト