高野 成雄(たかの しげお、1877年(明治10年)11月7日 - 没年不詳)は、明治・大正時代の養蚕術研究家。(北信成蚕社)を創始し、長野県における近代養蚕業の功労者とされる。
たかの しげお 高野 成雄 | |
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高野 成雄 | |
生誕 | 1877年(明治10年)11月7日 大日本帝国・長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地) |
死没 | 不詳 日本 |
住居 | 大日本帝国 → 日本 |
国籍 | 大日本帝国 → 日本 |
出身校 | 蚕業学校 |
職業 | 養蚕術研究家 |
時代 | 明治時代中期 - 昭和時代初期 |
雇用者 | 蚕業学校 |
団体 | 蚕業学校 (北信成蚕社) 養蚕改良信蚕社 理想的飼育法高野式箱飼普及会 |
著名な実績 | 近代的養蚕術の普及 |
代表作 | 『養蚕実験真説』 |
活動拠点 | 大日本帝国 → 日本 |
肩書き | (北信成蚕社)創業者 養蚕改良信蚕社設立者 理想的飼育法高野式箱飼普及会設立者 近代養蚕業の功労者 |
親 | 父:高野 直作 母:高野 駒((寺島洲)の姉) |
家族 | 家族の一覧を参照。 |
来歴
1877年(明治10年)11月7日、(高野直作)の長男として長野県上水内郡柳里村8番地(現・長野県上水内郡飯綱町柳里中宿164番地)に生まれる。母は(寺島洲)の姉・駒(こま)。
当時、長野県の病気に罹り全滅してしまうことがあり、養蚕家が多額の負債を抱えて破産してしまうことがあった[1]。高野はそんな (ようさんか)の実情を見て、 (ようさんか)のリスクを近代的な科学を用いて回避することを願い、 (ようさんがく)を修めることを望む。蚕業学校を卒業ののち、埼玉県競進社伝習所で『氣象與養蠶(気象と養蚕)』を著した(浪江梯三)[2]に師事し養蚕学を修めた[1]。その後、蚕業学校の教授となり養蚕術を講じる[1]。
(ようさん)は古典的な手法に頼ったものが多く、時として、 (かいこ)が故郷の高岡村(1889年(明治22年)の町村制施行に伴い、旧・柳里村他7村の区域に発足)柳里に戻り、自ら (ようさん)を実践[3]。
「養蚕家懇親会[4]」を催し、この席上で「長野県下の蚕業改良の志」を述べ、創立委員に、(寺島渉)、(丸山高治)、(村松伝次)らを (しょうへい)し、郷友26名からなる「養蚕改良組合」を組織した[1]。
1902年(明治35年)9月20日、「養蚕改良組合」を「養蚕改良信蚕社」と改称[5]し、近代的養蚕術の普及に努めた。
高野の提唱した飼育法の改良により、「養蚕改良信蚕社」発足の数年後には社員全員が未曾有の大豊作を得て、その評判は近隣に知れ渡り、長野県北部地域における養蚕事業発展を見るに至った[1]。
1909年(明治42年)2月25日、『養蚕実験真説』を著す[1]。
1918年(大正7年)、『養蚕実験真説』を再版し、さらに増補改良を重ねる。1929年(昭和4年)、「理想的飼育法高野式箱飼普及会」を組織し、『理想的飼育法高野式箱飼育詳説(春夏秋蚕共通)』を著す。
家族
高野家の祖は、長野県上水内郡の牟礼宿本陣を営んだ高野家の(分家)で、柳里村の中宿を本拠とした。
- 祖父:(高野長蔵)
- 祖母:(高野志茂)(文政4年(1821年) - 1899年(明治32年)、(寺島軍治)の伯母)
- 父:高野直作(嘉永2年(1849年) - 1901年(明治34年))
- 母:高野駒(嘉永4年/嘉永5年(1852年) - 1895年(明治28年)、(寺島洲)の姉)
- 継母:高野文(慶応3年/慶応4年/明治元年(1868年) - ?、(宮澤倉之助)の妹)
- 本人:高野成雄
- 弟:(高野賢吾)(1880年(明治13年) - ?)
- 弟の妻:高野志女(1880年(明治13年) - ?、寺島七郎右衛門の次女、(高野賢吾)の妻)
- 姪:高野静江(1900年(明治33年) - ?、高野賢吾の長女)
- 弟:(高野久衛)(1885年(明治18年) - ?)
- 弟:高野正夫(1888年(明治21年) - ?)
- 弟:(高野義衛)(1901年(明治34年) - ?)
- 姉:(乾八重野)(1874年(明治7年) - 1940年(昭和15年)、板垣退助の次男・乾正士の妻、乾一郎の母)
- 妹:(高野豊)(1882年(明治15年) - ?)
- 妹:高野登志(1892年(明治25年) - 1892年(明治25年))
- 妹:高野 秀(1899年(明治32年) - ?)
補註
- ^ a b c d e f “『養蚕実験真説』高野成雄著”. 北信成蚕社 (1909年2月25日). 2020年11月3日閲覧。
- ^ “『氣象與養蠶』浪江梯三著”. OPAC (1903年12月). 2020年11月3日閲覧。
- ^ “『土地と共に生きている人々の生活の中に「地域文化」が息づいている』池田正人”. NPO法人 信州地域社会フォーラム (2003年9月26日). 2020年11月3日閲覧。 [] - 「中宿の人はいろいろの工夫をした。明治10年代(1877年(明治10年) - 1886年(明治19年))では (まゆ)をうりさばいていたのは牟礼村と柳里村で、他の2村は自家用か村内の需要に応じる程度であった。特に中宿は早くから養蚕が盛んであった。高野 成雄が埼玉県の産業学校へ行って (ようさん)技術を学んできて、広めたことによる。霜の害のときも、室にいれて再発芽の桑を利用し、きょう蛆(さなぎの蛆)の予防などがおこなわれた。信蚕会という養蚕技術改良のための組合をつくり、会員には長野市大豆島の人なども会員になった。この技術改良は、棚育(竹で編んだかごにのせ飼う方法)や、ざ桑育(桑の葉をきざむ)から葉をそのまま食べさせる条桑育にかえかなりの省力化ができた」とある。
- ^ 『養蚕実験真説』147頁
- ^ 『養蚕実験真説』148頁
著書
- 『養蚕実験真説』(北信成蚕社、1909年(明治42年))
- 『養蚕実験真説』(北信成蚕社、1918年(大正7年))
- 『理想的飼育法高野式箱飼育詳説(春夏秋蚕共通)』(理想的飼育法高野式箱飼普及会、1929年(昭和4年))