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阿波戦争

阿波戦争(あわせんそう)とは、徳島県における保守分裂選挙のこと。発端となった選挙戦は特に三角代理戦争(さんかくだいりせんそう)と呼ばれる[1]

概要

きっかけは1974年第10回参議院議員通常選挙。分裂選挙の舞台となった1人区徳島県選挙区には現職の久次米健太郎がいたが、田中角栄首相は現職を優先するという不文律に反し内閣官房副長官であった後藤田正晴自民党公認候補とし、現職の久次米に公認を出さなかった。徳島選挙区は三木派を率いる大物政治家三木武夫の地元で、久次米は「三木武夫城代家老」と呼ばれていた三木側近の一人であったことから、三木は田中の決定に猛反発し、派閥をあげて党公認候補後藤田の対立候補である久次米の選挙戦を支援し保守陣営が分裂する選挙戦となった。この選挙以後長きにわたって徳島では自民党が分裂状態に陥った。

後藤田擁立の背景

当初、後藤田は全国区で擁立される予定であった。後藤田は警察庁長官としてよど号ハイジャック事件あさま山荘事件等の極左過激派の事件に対処した経験をもち国民的な知名度があり全国の警察関係者からの得票も見込めるため、後藤田から参院選出馬を相談された田中や田中派幹部の二階堂進も全国区から出馬することを後藤田に対して勧めた。しかし、後藤田はゆくゆくは中選挙区制のみの衆院選に立候補したいと考えており、警察庁の内規の関係で警察官僚は出生地以外の選挙区での立候補が認められないことから、郷里の徳島選挙区での公認を求めた[2]。後藤田が頑なに徳島選挙区にこだわった背景には、新人の後藤田が将来地元徳島で衆院選を勝ち抜くためには三木とは別に新たな支持基盤をもつ必要があったからである。

三木は1937年(昭和12年)以来衆議院徳島選挙区で当選を重ね、戦後の選挙に至っては常に三木がトップ当選を果たしており、徳島はいわば「三木王国」とでもいえる土地であったが、反三木勢力も少なからず存在していた。徳島を地盤とする衆議院副議長秋田大助や参議院議員小笠公韶がその代表で、両者に加え反三木の県議らが久次米の議席を奪うことで反三木勢力の拡大を目論み後藤田擁立に動き、後藤田も反三木の保守勢力を自身の支持基盤とした。

後藤田の強い求めに対し田中は徳島選挙区で後藤田を公認候補として擁立する方向で検討に入った。久次米よりも後藤田の方が知名度が高く当選が確実視でき、また、第1次田中角栄内閣内閣官房副長官を務めるなど田中の腹心として将来性があるとの思惑が働いたからである。このような動きに対し、三木は田中に対して原則通り久次米を公認するよう申し入れを行い後藤田擁立の動きを牽制した。

後藤田公認

後藤田公認が田中の意向であったとはいえ、田中派内部に異論がないわけではなかった。田中派旗揚げの立役者でもあり党幹事長の橋本登美三郎は原則を曲げてまで後藤田を選挙区の公認候補とすると三木派が反発し政権運営に支障をきたしかねないことを理由に後藤田擁立には消極的であった。当時の田中政権は1972年(昭和47年)の衆院選で自民党結党以来最低議席となる大敗を喫して先の総裁選で争った田中の政敵でもある福田赳夫行政管理庁長官に迎え、さらに1973年11月に大蔵大臣の愛知揆一が急逝すると経済政策を一任するという大幅譲歩と引き換えに福田を後任に起用し、かろうじて挙党一致体制の体面を保っているという不安定な状態であった。もし三木が離反し福田と結ぶようなことがあれば田中政権が潰されかねない、そんな危惧が橋本にはあったのである。

後藤田は田中の後押しもあって徳島で急速に支持を拡大していった。そして、ついに自民党徳島県連に公認申請をするに至った。公認申請をするということは即ち久次米と直接対決をする意思表示に他ならず、自民党徳島県連は久次米派と後藤田派に党内分裂するという事態に陥った。県連幹部は話し合いにより公認候補を決定する道を模索するも両陣営は日増しに対立を深めておりまとまるはずがなかった。最終的に投票により公認候補の決定を行う運びとなったが、開票直前に三木派の県議らが開票を自民党本部に委ねることを提案し、後藤田陣営もこれに同意し開票は自民党本部に付されることになった。両陣営が合意に至った背景にはそれぞれの思惑があったためである。三木陣営は、後藤田が有利といわれている状況で開票し結果が確定してしまうと久次米公認の途が完全に絶たれてしまうため、党本部に持ち込み三木と田中の会談により公認候補を決定すれば田中が折れて原則通り久次米が公認を得られるだろうという思惑があった。一方の後藤田陣営は、県連で開票してしまうと久次米陣営は県連を分裂させてでも久次米を擁立する可能性が高く、開票に党本部のお墨付きを与えることで久次米陣営の動きを封じ込め、開票結果をもって三木本人に久次米公認を諦めさせようという思惑があった。投票箱はそのまま自民党本部に空輸され、開票は党執行部に委ねられた。しかし、橋本幹事長は事態の推移を見守りその間三木を説得するため開票の先送りを決定した。

しかし、三木への説得工作は不調に終わり公示日寸前に至ってもなお公認選定はもつれ、最終的に現職優先の原則を曲げ知名度と将来性のある後藤田を推す田中の一声で後藤田公認を決定するに至った。後藤田公認に決まれば三木も自民党員としてそれに従うだろうという田中の楽観的な読みも後藤田公認決定の一因であった。

三木の逆襲

公認を得られなかった久次米は無所属で立候補する意思を固め自民党を離党した。それに応呼して三木派所属の国会議員たちも久次米支援に動き出した。元々三木派の議員たちの間では、決選投票で田中を支持したのにもかかわらず第一次・第二次ともに閣僚ポストが2つしか与えられず、そのポストも三木の副総理を除けば枢要なポストではなかったことから田中への反発がくすぶっていた。そして三木もまた自分が田中から軽視されたことに憤り、三木派の会合で久次米必勝の気勢をあげた。

6月6日、三木は徳島に入り6月14日の選挙公示日に向け同一選挙区での遊説としては極めて異例の1週間もの時間を徳島遊説に費やした。また、三木派所属の国会議員たちも徳島に乗り込み遊説を繰り返した。三木派の選挙活動は熾烈なもので、当初は久次米非公認の不当性を訴える内容だった演説も次第に熱を帯びはじめ、金のかかりすぎる選挙制度や金権政治への批判を行うなど暗に田中政権への批判ともとれる発言もではじめた。あまりにも激しい敵対候補への選挙活動を見かねた橋本登美三郎幹事長と江崎真澄幹事長代理が久次米の応援を自粛するよう三木派幹部の井出一太郎に申入れを行うほど事態は尖鋭化していった。

徳島では公認を得られた後藤田陣営の県議が議会や県連の主要ポストを独占するに至り、久次米陣営の県議たちにとっては選挙結果が死活問題になりかねない状態にまで追い詰められてしまっていたため、久次米陣営は後藤田有利の状況から巻き返しをはかるため何振り構わない選挙活動を展開した。一方の後藤田陣営もこれに対抗する形で強引な選挙活動を展開したため、選挙後、後藤田事務所が捜索を受けた他、両陣営から数百名という前例のない規模の選挙違反者が検挙されることとなった。三木系に属する徳島県知事武市恭信は党規に反して無所属候補を応援するわけにはいかないとして、自民党を離党した上で久次米の選挙活動を行った。

激しい選挙戦は投開票日の7月7日までの約1ヶ月間展開され、その過程で三木は反田中色を明確にし三木と田中の対立は避けられないものとなってしまった。そして、田中から離れた三木に福田赳夫が接近し、福田もまた選挙活動を通じて金権政治批判を展開し、後の三福連合の土台が醸成された。

選挙結果は久次米が19万6210票を獲得し、15万3388票に終わった後藤田を破り久次米が議席を守り抜いた。後に後藤田はこの選挙について「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と述べている。

三角代理戦争の影響

中央政界

三木と福田が接近したことで選挙直後から田中政権はぐらつくこととなった。選挙後の7月11日、三木は三木派総会で選挙総括を行い副総理辞任の意思を固めた。そして翌12日、三木は田中に辞表提出の意思を伝えた上で二階堂官房長官に辞表を提出した。その後、福田も三木に追従することが有力視される中、佐藤派分裂の後福田派に参じた保利茂行政管理庁長官は角福調整に奔走し続けた。そして、7月15日、自民党長老会議が開かれ田中福田両名に対し「物価対策に全力をあげること」「田中が福田に協力を要請すること」「次の総裁選は話し合いで決めること」を申し入れることを決定した。もっとも、長老会議は形式的なものであったため調整が功を奏すことはなかった。そればかりか、田中嫌いで知られる岸信介首相は逆に福田に辞任をけしかけさかんに倒閣を煽り続けた。7月16日、石井光次郎衆議院議長と岸信介は長老会議を代表して田中福田両名と会談するも、福田は辞任の意思を崩さず同日中に辞表を提出した。角福調整に失敗した保利もまた、調整失敗の責任をとる形で同日辞表を提出した。こうして三木と福田は連携して田中批判を強め、後の田中金脈問題で田中を政権から引きずり下ろすことに成功した。

県連の分裂、後藤田系による選挙区の掌握

その後の徳島県では三木系と後藤田系が国政や徳島県政を巡って分裂、県議会の会派も別々となった。当初は、三木系の徳島県政への影響力は三木政権誕生と共に絶頂期を迎えていたが、その間に後藤田は地元の行脚で地盤を固め、1976年に行われた第34回衆議院議員総選挙で現役首相である三木の選挙区で後藤田が第2位で初当選する。自民党はこの選挙で議席を減らし、三木は責任を取って退陣する。以後、徳島においても三木系の影響力の低下が見られるようになった。

1977年の徳島知事選では現職の武市が4選出馬を表明し、自民党に公認を申請したが、反三木派は1974年の参院選で武市が無所属の久次米を支援したことなどを理由に武市の公認に反対し、国政に進出した後藤田も自身の選挙を妨害した武市の再選阻止を画策した[3]。両派は党本部への公認申請を決定する県連の総務会開催をめぐって対立し、反三木派は開催延期を求めた。反三木派の県連会長の小笠も総務会開催には消極的であったが,三木派は総務会の開催を強行し、武市の公認を決め、党本部に公認するよう求めた。しかし、反三木派はこの決定に反発、対立はさらに激しさを増した。公認申請を受けた党本部も対応に苦慮しており、8月30日になって武市の公認を見送り、代わって党籍証明を出すことを妥協案として提案した。その後、最終的に福田赳夫総裁名で政治団体確認申請書が徳島県選挙管理委員会に出されたことで決着、武市の公認は見送られたものの、武市は自民党を名乗ることが可能となり、自民党から事実上支援を受けることになった。

一方、武市陣営の動きに対し、反三木派の保守陣営は、社会党公明党など革新陣営と共同で県議会に武市知事4選出馬断念勧告決議案を提出、可決され、保革連合である県政刷新議員連盟を結成する。これらの背景として、社会党選出の衆議院議員である井上普方が後藤田の甥という親戚関係でもあり、また公明党選出の衆議院議員である広沢直樹も武市不支持派であったことから、保革連合が促進されやすい状況であった。県政刷新議員連盟は、最終的には県議であった三木申三を擁立し、社会党は三木申三を推薦、公明党、民社党は自主投票だったものの三木申三への支持が多く、武市の対立候補となる。最終的には、武市がわずか1,539票差、得票率0.4%差という僅差で三木申三を破り、辛うじて4選を果たしたものの、直系の武市知事がここまで苦しい戦いを強いられたことは、三木武夫の徳島県政への影響力の衰退を象徴していた。

1979年の総選挙では、三木武夫は後藤田を得票数では上回ったものの3位当選に終わり、戦後ずっと守ってきていた衆院選でのトップの座を明け渡す。トップ当選したのは反三木派の筆頭で、前回の総選挙で落選した秋田大助であり、2位当選も事実上の反三木派である社会党の井上普方であった。翌1980年には、三木の城代家老と呼ばれた久次米が第12回参議院議員通常選挙への不出馬・政界からの引退を表明(その後、久次米は死去)、後継である内藤健が自民党公認で当選する。内藤は、当初は無派閥であったが、同年12月に田中派である木曜クラブに入会する。

武市は1981年徳島県知事選に立候補して5選を狙うが、武市に対する多選批判は厳しく、三木派の県議の中にも前回の知事選に辛勝した段階で5選出馬はないと考えていた者がいたほどであった。一方、リベンジを期す後藤田系の三木申三は、前回に続いて無所属で出馬。社会党、公明党、民社党から推薦を得た。結局知事選では三木申三が約3万2000票差で前回の雪辱を果たし、武市を破って初当選し武市の5選を阻止、三木武夫は直系の知事を失った。これにより三木の徳島県政への影響力は衰退の一途を辿った一方、後藤田の影響力がより強まり、1983年には、県議会選で後藤田系が三木系を抜き最大会派となった。同年の総選挙でもロッキード事件判決の影響もある中で、後藤田が初めて三木武夫を得票数で上回りトップ当選を果たす。

1985年に、田中が病気で倒れてからも後藤田系の勢いは止まらなかった。そして、三木系が強かった徳島市でも三木系の山本潤造が徳島知事選立候補、市長選4選不出馬を表明、武市の知事時代の出納長を後継者としたが、後藤田系の三木俊治に敗れた。山本は不出馬後、徳島県知事選に挑んだが三木申三が再選する。そんな中、三木武夫は病気で倒れ、1986年の総選挙では病床から立候補するなど、衰えは明らかであった。こうした中で、1987年に三木派の県議七条明、田中派の県議山口俊一らがベテラン議員を説得し11年ぶりに自民会派が統一された[4]。この後、山口は1990年の総選挙で、七条は三木武夫死後の1993年の総選挙で当選し、国政に転じている。

1988年に三木武夫が現職議員のまま死去し、その後1993年に田中も刑事被告人のまま死去。後藤田も1996年に政界を引退(2005年死去)し、三角代理戦争としての阿波戦争は、完全に終焉した。

平成期の徳島県内の小選挙区と参議院徳島県選挙区の情勢

1996年の第41回衆議院議員総選挙より小選挙区比例代表並立制が導入され、徳島県内はこれまでの全県1区から3つの小選挙区に分かれることになり、導入初となった第41回総選挙で自民党は1区に元徳島市長の三木俊治、2区に現職の山口俊一、3区には元徳島県知事の三木申三を公認とし、前回の総選挙で県議から転じて初当選した七条明は比例四国ブロック単独候補に回る構図で臨んだが、1区は旧民主党公認の元職の仙谷由人、3区は新進党公認の前職の岩浅嘉仁にそれぞれ敗れ、比例単独の七条も議席を確保できず落選(その後、越智伊平の死去に伴い2000年3月に繰上当選)するなど、結局、徳島県内で自民党は山口の1議席しか確保できなかった。

2000年の第42回衆議院議員総選挙では、1区は七条と元農林水産省官僚の新人・岡本芳郎との間にコスタリカ方式が導入され、当該選挙では岡本が1区、七条は再び比例四国ブロック単独で立候補した。また、3区は後藤田正晴の大甥である後藤田正純が公認候補となった。この選挙では岡本は仙谷に敗れて落選したものの、山口と後藤田が当選し、七条が比例で議席を確保した。以降は1区では民主党の仙谷が小選挙区での強さを見せて議席を確保する一方で、2区・山口、3区・後藤田が安定して小選挙区での勝利が続いた。一時は山口が郵政民営化反対の立場から自民党を離れ、2005年の第44回衆議院議員総選挙では2区で党公認となった七条と対決する構図にもなった(無所属の山口が小選挙区当選、七条も比例復活)が、選挙後の翌2006年には山口は自民党に復党している。

自民党に逆風が及ぶ中で行われた2009年の第45回衆議院議員総選挙では、1区は前回比例復活した岡本、2区が山口、3区が後藤田で、山口の復党を受けて比例四国ブロックに回ることになった七条は比例優遇は叶わず、単独13位の登載順位に置かれた。投開票では民主党の躍進から1区の仙谷に岡本は敗れ、2区も山口は民主党元職の高井美穂に初めて小選挙区で敗れたが、辛うじて比例復活で議席を死守した。3区の後藤田は民主党・新人の仁木博文を僅差で振り切った(仁木は比例復活で当選)。比例四国ブロック単独に回った七条は名簿順位が下位になったことで議席獲得には届かず落選した。七条は一度は政界引退を表明したが、2013年の上板町長選で当選し、地方首長に転じた。

変わって自民党が地滑り的な大勝を収めた2012年の第46回衆議院議員総選挙では、1区で県議から転じた福山守が仙谷を破って議席を獲得し、2区の山口、3区の後藤田も勝利し、初めて徳島県内の小選挙区を自民党が独占することとなった。

2014年の衆議院小選挙区0増5減の定数是正により、徳島県の小選挙区は3から2に減った。このため、旧徳島1区選出の福山守と旧徳島3区選出の後藤田正純の間で選挙区調整が必要になり、福山は同年の第47回衆議院議員総選挙において比例四国ブロックの上位単独候補(2位)となった。この選挙では1区に回った後藤田、2区の山口がいずれも当選したことで引き続き県内の小選挙区を自民党が独占し、比例単独に回った福山も当選した。しかしながら「比例優遇は2回まで」という自民党の内規があり、福山は次の衆議院選挙で選挙区での立候補を模索するようになり、福山と後藤田はどちらも同じ石破派の所属にも関わらず、徐々に両者の間に溝が生じ始め、後述の「令和の阿波戦争」の発端ともなる重要な分岐点となっている。

なお、2017年に行われた第48回衆議院議員総選挙でも、前回に引き続き1・2区とも自民党が独占し、比例四国ブロックで連続立候補となった福山も登載順位上位(2位)に優遇され、議席を確保したことで表向き平穏を保った。

一方、参議院徳島県選挙区では1989年の第15回、1998年の第18回、2007年の第21回の3回にわたり自民党公認候補が敗れており、このうち第18回では三木武夫の実娘である高橋紀世子が野党統一の無所属候補として、自民党公認の現職であった松浦孝治を破ったことが特筆される。高橋は議員任期中は常に野党陣営に身を置いており、みどりの会議を経て、結局1期6年の任期限りで次期参議院選挙に立候補せず、政界から引退している(2020年7月死去)。

また、2004年の第20回で当選した元徳島市長の小池正勝は当選時は自民党公認であったが、次期参議院選挙(第22回)の候補選定を巡って対立し、2010年に自民党を離党、その後新党改革に入党した。これにより同年7月の第22回参議院議員選挙で自民党公認の新人である中西祐介が当選(小池は新党改革公認で立候補し落選)するまで、参議院の徳島県選挙区は一時自民党議員が不在という事態になった(新党改革所属の小池と民主党所属の中谷智司が選出議員。ただし徳島県連所属としては参議院比例区に中村博彦がいたため、完全に不在という訳ではなかった)。

この参議院徳島県選挙区は、2015年の公職選挙法改正による定数是正によって高知県選挙区との合同選挙区徳島県・高知県選挙区)となり、2016年の第24回参議院議員通常選挙から適用された。2016年は徳島県側の現職であった中西祐介が同選挙区で当選したが、次回の2019年の第25回参議院議員通常選挙では高知県側の現職であった高野光二郎が同選挙区で当選しており、徳島・高知の順に回ごとに交互に候補を同選挙区に擁立し、一方で選挙区に擁立しない県側は比例区に候補を擁立したうえで、第25回から適用を開始した「特定枠」を用いて優先的で当選させる配慮がなされている。これにより第25回は徳島県側の現職であった三木亨が比例特定枠候補1位として再選している。2022年の第26回参議院議員通常選挙では引き続き中西祐介が徳島・高知選挙区に立候補して当選している(高知県側は新人の梶原大介が比例区特定枠候補2位で当選)。

令和の阿波戦争

2019年の徳島県知事選挙と2020年の徳島市長選挙は保守分裂選挙となり、自民党徳島県連の推薦する候補と後藤田正純の推薦する保守系無所属候補の激しい選挙戦となった。NHKはこれを「令和の阿波戦争」と報じた[5]

2019年の徳島県知事選挙では自民党県連推薦の現職、飯泉嘉門が158,972票を獲得したのに対して後藤田の支援する岸本泰治は122,779票であり、飯泉が再選を果たした。翌2020年の徳島市長選挙では後藤田が支援する現職の遠藤彰良と徳島県連所属の自民党国会議員である福山守や山口俊一らが支援する新人の内藤佐和子の一騎打ちとなり、遠藤の39,248票に対し、新人の内藤が41,247票で僅差で遠藤を破って初当選を果たした。

また2018年の徳島市阿波おどり総踊り中止騒動の際、後藤田は総踊りの中止を進める遠藤市長側に付いたため、総踊りを強行する阿波おどり振興協会が2020年の徳島市長選挙で内藤を支援するなど、分断は地域を巻き込み深刻化しつつあった[6]

2021年衆院選を巡る動静

2021年に行われる予定となっていた第49回衆議院議員総選挙に向けて、同年5月に自民党徳島県連は後藤田について「うそとでたらめにまみれた言動」があるなどとして、党本部に公認しないよう求める異例の事態となり、後藤田も「(申し入れは)当事者たる1区支部長や支部を無視し、不当介入。議決は前代未聞の独善。県民に真実を取り戻す」と反発するなど亀裂が表面化した[7]。さらに選挙直前の9月には飯泉知事が県連幹部などの要請を受けて、徳島1区での立候補に向けた動きを一時見せる[8]など混迷した。仮に飯泉が衆院選に立候補した場合、後任の知事選候補を巡って飯泉は女性官僚の擁立を目論見、後藤田側は意を受けた参議院議員である三木亨が知事選出馬への意欲を見せるなど、衆院1区と知事選が激しい選挙戦になることが危惧されていた。このため、県連幹部の意を受けた飯泉は出馬の意向を撤回し[9]、この混乱の責任を取る形で山口俊一が県連会長の辞任に追い込まれた[10]

最終的に党本部から発表された公認候補者は、1区は後藤田の公認となり、福山は前回に引き続き3度目の比例四国ブロックへの単独立候補となったが、比例優遇措置がなくなり、名簿登載順位は小選挙区重複立候補者よりも下位となる13位に置かれた。自民党徳島県連では選挙戦に当たり徳島1区を自主投票とし、連立を組んでいる公明党もこれに追従し後藤田を推薦せず自主投票とした[11]。後藤田はこの内紛の影響や日本維新の会公認の吉田知代が立候補したことによる保守票の分散から選挙戦では苦戦が伝えられ、10月31日投開票の結果、後藤田は無所属で立候補した仁木博文に初めて敗れ、比例復活で辛うじて議席を死守する結果となった(吉田も比例復活し、徳島1区は初めて与野党合わせて3人の議員が選出されている)[12][13]。また、福山は比例での議席獲得に届かず落選している。

2023年徳島県知事選を巡る動静と後藤田県政の誕生

2023年4月の統一地方選において、任期満了に伴う徳島県知事選挙は現職の飯泉嘉門の進退が不透明な中で、まず2022年12月に三木申三元知事の子息で参議院議員の三木亨がいち早く立候補を表明した。ただし、三木亨の知事選出馬に際しては、2019年の第25回参議院議員通常選挙で合区に伴う比例区の特定枠で当選している事から、自民党徳島県連を含めた特定枠対象となる各県連より「特定枠創設に至るまでの経緯や努力を無にしかねない」「参議院自民党及び党本部の組織全体、さらには参議院選挙制度そのものへの重大な影響を及ぼす恐れがある」と再考を求める意見や世耕弘成参議院自民党幹事長からも「慎重な検討が必要だとの認識」との意見[14]があったが、三木の立候補の意思は変わらないものとなっており[15]、翌2023年1月13日に三木は尾辻秀久参議院議長に議員辞職願を提出し、同日許可された(繰上当選は次点者の田中昌史(非特定枠[注 1]))[16]

そして、2021年の衆議院議員総選挙で比例復活となった後藤田正純も知事選への立候補の意思が明らかになり、翌2023年1月5日に細田博之衆議院議長に議員辞職願を提出し、同日許可された(繰上当選は次点者の香川2区瀬戸隆一[17]。翌6日に県知事選への立候補を正式に表明した。さらに前回の知事選に後藤田の支援を受けて立候補し敗れた元徳島県議の岸本泰冶も立候補を表明した[18]うえ、現職の飯泉も立候補を表明した[19]ことで、この時点で議員辞職で退路を断った元国会議員2名を含む、自民党系4名による保守分裂選挙の情勢となっていた。その後、岸本が知事選からの撤退を表明している[20]。自民党徳島県連は現職の飯泉の推薦を決定した[21]。最終的に3月23日の知事選公示に伴い、三木、後藤田、飯泉の自民党系無所属3人と日本共産党公認の古田元則の4人が立候補を届け出る保守分裂の知事選となった[22]。4月9日の投開票の結果、主に無党派層の支持を得た後藤田が三木、飯泉らを下して知事選初当選を果たした。現職の飯泉は5期20年の多選批判もあり、三木にも後塵を拝し3位に終わった[23]。なお、自民党徳島県連の会長だった杉本直樹は県連が知事選で推薦した飯泉に加え、自身も県議選(那賀選挙区)で落選した引責により辞任に追い込まれた[24]

注釈

  1. ^ 三木が参議院議員を退職(辞職)した場合、比例区名簿登載者の当選順位で次点であった田中(日本理学療法士連盟の支援候補)が繰上当選の対象となるが、田中は北海道を拠点としており、本来の合区に伴う特定枠の救済措置にそぐわなくなるという懸念があった。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ “狂乱の「阿波戦争」”. 徳島新聞 (2001年3月19日). 2010年2月6日閲覧。
  2. ^ 保阪正康『後藤田正晴 異色官僚政治家の軌跡』文藝春秋、2009年
  3. ^ 後藤田正晴 (1996-6-24). 情と理 - 後藤田正晴回顧録<上>. 講談社. pp. 346-347 
  4. ^ “「阿波」の友、真っ二つ 分裂おさめた功労者 2区”. 朝日新聞 (2005年8月24日). 2010年2月6日閲覧。
  5. ^ “WEB特集 実録 令和の阿波戦争”. NHK (2020年4月9日). 2020年7月1日閲覧。
  6. ^ “徳島市長選、阿波おどりと利権巡る2派の代理戦争的様相に”. (ニュースポストセブン) (2020年3月26日). 2020年7月1日閲覧。
  7. ^ 「後藤田氏を非公認に」 自民徳島県連が申し入れ可決 - 朝日新聞デジタル 2021年5月10日
  8. ^ 「知事では限界」 飯泉・徳島県知事、衆院選出馬か 決断に注目 - 朝日新聞デジタル 2021年9月17日
  9. ^ 衆院選 「知事、国政に」自民混迷 徳島県議ら画策、幻に - 毎日新聞 2021年10月12日
  10. ^ 徳島知事の衆院選立候補めぐり、自民混乱 県連会長辞任にまで発展 - 朝日新聞デジタル 2021年10月6日
  11. ^ 公明、徳島1区自主投票 比例の得票に影響か【断面 21衆院選とくしま】 - 徳島新聞電子版 2021年10月28日
  12. ^ 自民・後藤田正純氏が小選挙区で敗北、無所属・仁木博文氏が当選…徳島1区 - 読売新聞オンライン 2021年10月31日
  13. ^ 自民の後藤田氏が比例復活 徳島県連との不和影響か - 東京新聞 TOKYO Web 2021年10月31日
  14. ^ 世耕参院幹事長、特定枠当選者は慎重な検討を 徳島県知事選 - 産経ニュース 2022年11月15日
  15. ^ 「知事選出馬再考を」 参院特定枠選出の三木氏に自民4県連申し入れ - 朝日新聞デジタル 2022年11月19日
  16. ^ 自民・三木氏、参院議員を辞職 特定枠で当選、徳島知事選出馬 - 共同通信 2023年1月13日
  17. ^ 自民・後藤田氏が議員辞職 徳島知事選に6日出馬表明へ - 朝日新聞デジタル 2023年1月5日
  18. ^ 元県議が出馬表明 徳島知事選 - 時事ドットコム 2023年1月10日
  19. ^ 現職の飯泉氏が4月の徳島県知事選に立候補を表明 - NHK NEWS WEB 2023年2月4日
  20. ^ 【速報】岸本泰治氏が県知事選の出馬断念 - 徳島新聞デジタル 2023年3月3日
  21. ^ 自民県連、飯泉氏を推薦 保守分裂の徳島知事選 - 時事ドットコム 2023年3月1日
  22. ^ 保守3分裂の徳島知事選に4人が立候補 自民県連は現職推薦 - 朝日新聞デジタル 2023年3月23日
  23. ^ 徳島知事選、後藤田氏が多選批判し当選「新時代の扉開くことできた」 - 朝日新聞デジタル 2023年4月10日
  24. ^ 徳島:自民県連 杉本会長辞任へ - 読売新聞 2023年4月10日

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  • 近藤隆行「三角代理戦争―現代阿波狸合戦の十年」(静山社)

関連項目

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