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越智 伊平(おち いへい、1920年12月10日 - 2000年3月24日[2])は、日本の政治家。自由民主党衆議院議員。正三位。越智電気商会(現・四国通建)創業者[3]。
越智 伊平 おち いへい | |
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生年月日 | 1920年12月10日 |
出生地 | 日本 愛媛県 越智郡玉川町(現・今治市)[1] |
没年月日 | 2000年3月24日(79歳没) |
出身校 | 相模原工学校卒業 |
所属政党 | 自由民主党(村上・亀井派) |
称号 | 正三位 |
第25代 農林水産大臣 | |
内閣 | 第2次橋本改造内閣 |
在任期間 | 1997年9月11日 - 1997年9月26日 |
第65代 運輸大臣 | |
内閣 | 宮澤改造内閣 |
在任期間 | 1992年12月12日 - 1993年8月9日 |
第51代 建設大臣 | |
内閣 | 竹下内閣 |
在任期間 | 1987年11月6日 - 1988年12月27日 |
選挙区 | (旧愛媛2区→) 比例四国ブロック |
当選回数 | 10回 |
在任期間 | 1972年10月8日 - 2000年3月24日 |
第60代愛媛県議会議長 | |
在任期間 | 1971年5月7日 - 1972年7月8日 |
その他の職歴 | |
愛媛県議会議員 (1959年 - 1972年) | |
今治市議会議員 (1955年 - 1959年) |
来歴・人物
愛媛県越智郡玉川町(現・今治市)鈍川出身[1]。相模原工学校卒。
今治市議会議員、愛媛県議会議長[4]を経て、1972年、衆院補選に旧愛媛2区から初当選[2]。以来連続当選10回。自民党内で所属した中曽根派では渡辺美智雄に近く、1979年に起きた四十日抗争では、福田赳夫を支持する中曽根康弘の意向に反し、大平正芳を支持した渡辺と行動を共にした。
環境政務次官、労働政務次官などを経て、1987年11月、竹下内閣の建設大臣として初入閣。その後も、衆議院予算委員長、運輸大臣などを歴任[2]。
1997年9月、76歳の高齢で第2次橋本改造内閣の農林水産大臣に就任したが[2]、直後に脳梗塞で倒れ、就任してわずか16日で辞任した。自民系が分裂して争った1999年1月の愛媛県知事選挙では現職の伊賀貞雪を支持したが大差で敗れ、影響力を失った。
エピソード
- 少林寺拳法は6段の腕前だった[2]。
- 建設大臣時代、強制収用の適用は関係者数百人のうち反対する人が一人ぐらいにまで減ってから行うように主張していた[5]。
- 運輸大臣として最後の成田空港問題シンポジウムに参加し、反対同盟旧熱田派が提示した条件の受け入れを過去の経緯に対する謝罪とともに表明。成田空港問題の転換点の一つとなった。越智はシンポジウム開催に先立ち、暴行を受けることを懸念するセキュリティポリスからの警告を受けながらも、傍聴席まで下りて反対派農民の遺影に頭を下げて合掌した[6]。
- 愛媛県今治市に、越智が創業した企業の本社内に「越智伊平記念館」が2003年に開館している。
- 越智の顕彰碑が2006年に除幕されている。
経歴
脚注
- ^ a b “データベース『えひめの記憶』 今治市 越智伊平(1920~2000)”. 愛媛県. 2022年6月22日閲覧。
- ^ a b c d e 明治~昭和, 新訂 政治家人名事典. “越智 伊平(オチ イヘイ)とは - コトバンク”. コトバンク. 2018年9月9日閲覧。
- ^ “代表挨拶 | 四国通建株式会社”. www.stk.co.jp. 2018年9月9日閲覧。
- ^ “愛媛県庁/歴代議長・副議長一覧”. www.pref.ehime.jp. 2021年4月29日閲覧。
- ^ 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、185・186頁。
- ^ 朝日新聞成田支局『ドラム缶が鳴りやんで―元反対同盟事務局長石毛博道・成田を語る』四谷ラウンド、1998年、183-186頁。