長藪城(ながやぶじょう)は、和歌山県橋本市細川と慶賀野にまたがる城跡。現在の城山台住宅地北側の「城山」に位置する[1]。
概要
長藪城は、標高350m、比高170mの尾根上にあり、東西約600mに及ぶ[1]。3つの地点から成っており、それぞれ東の城、西の城、出城と呼ばれている[1]。
『紀伊続風土記』によると、楠木正成に従い功を立てた(牲川頼俊)の子・(義春)が、文明年中(1469 - 1487年)に紀伊国伊都郡に入り、長藪城を築いたという[2]。義春は紀伊守護・畠山政長に仕え、谷内郷(橋本川流域地区[3])13か村、一万石を支配し、義春の子・(義信)は谷内郷と河内国の2か村を合わせ、15か村を領した[4]。
永禄元年(1558年)、義信の子・(義則)は三好長慶家臣・松永久秀に攻められて城を明け渡すが[注釈 1]、永禄3年(1560年)、義則の子・(義次)が松永氏から城を奪還した[2]。
畠山氏の没落後は織田信長に従ったが、天正15年(1587年)、義次の子・(義清)は豊臣秀吉に逆らって討死し、長藪城は落城したとされる[2]。また、秀吉でなく織田信長により攻め落とされたとも伝えられる[2]。
また、確実な文献としては「祐維記抄」の大永4年(1524年)11月条に、畠山義堯方を攻める畠山稙長(政長の孫)が「長藪城衆」を引き連れたとの記述がある[1]。永正10年(1513年)8月には、稙長の父・尚順が長藪城近くにある(小峰寺)の砦に籠る畠山義英(義堯の父)との戦いのため軍事行動を起こしており(「三箇家文書」)、この時尚順方は長藪城を利用していたとみられる[1]。
これらのことから、長藪城は地元の武士・(牲川氏)の城を基に、紀伊守護・(畠山氏)が一城別郭式の大規模な城郭へと改修したものと推測される[1]。
脚注
注釈
脚注
参考文献
- 仁井田好古等 編『紀伊続風土記 第2輯 伊都 有田 日高 牟婁』帝国地方行政学会出版部、1910年 。