畠山 政長(はたけやま まさなが)は、室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。足利氏の一門畠山氏の人物。畠山持富の次男で政久(弥三郎)の弟。妻は京極持清の娘。子に尚順(尚慶)。お家騒動で従兄の畠山義就と争い、応仁の乱を引き起こした。
生涯
家督争い
政長の父持富は、嫡子のない兄(政長の伯父)の畠山持国の嗣子に予定されていた。しかし、持国は庶子の義就を召し出して跡を嗣がせようとしたため、畠山家中に内紛が生じた。持富は間もなく没したが、政長の兄・弥三郎が跡を嗣いで義就と争った。
長禄3年(1459年)、弥三郎も死去したため、政長は弥三郎派の遊佐長直・神保長誠・成身院光宣らの支持を受けて弥三郎の後継となり、義就と激しい戦いを繰り広げた。
寛正元年(1460年)9月20日、第8代将軍・足利義政の命令で失脚した義就に代わり幕府に帰参、義政より偏諱(「政」の字)の授与を受けて、政長と名乗る。
寛正元年12月19日から寛正4年(1463年)4月15日の2年半にかけて義就が籠城する河内嶽山城を包囲・陥落させ義就の追討に功績を挙げた(嶽山城の戦い)。
寛正5年(1464年)11月13日、細川勝元(妻の従兄弟にあたる)の後任の管領に就任する。管領在任中は奥州探題大崎教兼の関東出陣を命令、勝元の依頼で伊予国人河野通春討伐を大内教弘に命じている。
寛正6年(1465年)9月21日から29日までの8日間開催された義政の春日大社下向・社参では、警固役を務めている。
文正元年(1466年)、山名宗全・斯波義廉らが文正の政変による混乱に乗じて義就を擁立、8月に義就が大和で挙兵し河内を荒らし回り、10月に大和で越智家栄ら義就派国人も挙兵したため迎撃しようとした。だが、大和で政長派の成身院光宣と義就派の越智家栄との和睦が成ったため、光宣が12月に下向した
一方、河内に留まる義就は討伐されないばかりか宗全の要請で上洛、翌応仁元年(1467年)1月2日に義政により家督を義就に替えられ、5日に義政の命令で管領を罷免された。
だが、政長は解任を不服として勝元を頼り、ついに1月18日に上御霊神社において挙兵し、足利将軍家や斯波氏の争い(武衛騒動)と関連して応仁の乱のきっかけとなる(御霊合戦)[1][2][3][4]。
大乱中の活動
御霊合戦で義就に敗れて一旦姿をくらましたが、6月に幕府から赦免され復帰、勝元率いる東軍に属して宗全・義就ら西軍と戦った。政長本人はほとんど出陣しておらず、10月の相国寺の戦いで相国寺の西軍を急襲、文明2年(1470年)12月6日に南朝の末裔を称する人物を討ち取った程度で、河内・紀伊は赦免と同時に政長方が奪還、大乱中は大和国人の筒井順永・十市遠清らが西軍の攻撃を防いだ。一方の義就は、文明元年(1469年)に山城西部を制圧(西岡の戦い)、河内・摂津に進軍したが奪取出来なかった。
文明5年(1473年)に宗全・勝元が死去、12月19日に義政が息子の義尚に将軍職を譲って隠居した時、義尚の元服式のため1週間、2度目の管領を務めた。この時期管領に権力はほとんどなく、勝元の死去から政長の管領就任まで半年余り空席だった[注釈 1]。政長の辞任後は、幼少の義尚の代わりに母方の伯父に当たる日野勝光が実質的に管領の役割を担当、勝光を通して義政が幕府を切り回している状態であった。河内・大和は乱を通して安定せず、政長と義就それぞれの派閥に分かれた国人が争い続けていた。
ところが、終戦間際の文明9年(1477年)9月22日に義就が河内へ下向、政長の河内守護代・遊佐長直を若江城から追放して他の河内諸城も落とし、河内を実力で奪取してしまった(若江城の戦い)。
大和でも、義就派の越智家栄・古市澄胤が政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清らを追い落として、河内と大和は義就派が領有、政長は名目上の守護に過ぎなくなってしまった(越中・紀伊は確保している)。以後、政長は領国奪還のため義就討伐に執念を燃やすようになる[6][7][8][9][10]。
河内争奪戦
文明9年12月に3度目の管領に就任、文明10年(1478年)に山城守護に任じられる。本来山城は、幕府や朝廷の直轄領や有力貴族・寺社の荘園として統治され、守護職は名目上の役割に過ぎなかった。しかし、政長は実権を得るため、幕府から財政難を理由に命令された寺社本所領の課税で守護領国制の導入を強行した。それは同じ東軍であった細川政元(勝元の子)ら幕府首脳たちの反感を買ったばかりでなく、義就の圧力を受けた幕府により課税を撤回させられ、面目を潰された。
文明14年(1482年)3月8日、幕府から義就討伐命令を取り付けて政元と共に出陣し、6月に摂津に到着、7月に政元が勝手に義就と単独講和して引き上げた後も進軍を続け、摂津から船で堺に上陸して河内に侵攻した。だが、逆に「政長討伐」を名目とした義就軍の南山城侵攻や、山城の国人・農民達による国人一揆(山城国一揆)を引き起こした。
文明17年(1485年)、政長は止むを得ず山城から手を引き、山城は事実上幕府の御料国となった。
河内についても、文明15年(1483年)に河内北部の(犬田城)(枚方市)の救援に向かおうとして義就に撃破され、犬田城も落とされ河内を制圧されたため、領国化を果たせなかった(犬田城の戦い)。
幕政でも、文明18年(1486年)に管領を政元に交代、同年から長享元年(1487年)に4度目の管領となったが実権はなく、日野勝光の死後はその妹で義尚の母の日野富子が義政の代理として執り行う体制が続き、段々幕府に不満を抱いていった。
長享3年(延徳元年、1489年)、義尚が亡くなり、従弟の足利義材(後の義稙)が第10代将軍に就任すると、政元への対抗上義材と連携を組んで家督を維持し、権勢を誇った。
明応2年(1493年)2月、政長は義材や息子の尚順、重臣の河内守護代遊佐長直の他、播磨守護赤松政則などの幕府軍と共に義就の息子・畠山基家(義豊)が籠る河内国高屋城を攻めて追い詰める。
しかし、政元が義材と決裂した富子と赤松政則、および基家らと裏で結託していたため、政元が将軍廃立と実権奪還を目的とした明応の政変を4月に起こすと、高屋城を囲んでいた幕府軍は兵を引き、逆に政長の本陣である正覚寺城を包囲し、攻め込んできた。
閏4月、政長は尚順を逃がした後、遊佐長直らと共に自害した。墓所は大阪府大阪市平野区の正覚寺。法名は実隆寺殿[11][12][13][14][15][16]。なお、自害する際に薬研藤四郎を使用したところ上手くいかず、別の刀で自害したという。
死後
義材は捕らえられ京都に幽閉、次の将軍に義材の従兄・義澄が政元に擁立されたが、義材は脱出して政長の越中守護代神保長誠を頼って逃亡、越中公方と称された。また、尚順(のち政長の1字を取って尚長と改名)も紀伊国で挙兵し、基家・政元と戦うことになる。
偏諱を与えた人物
脚注
注釈
出典
- ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, pp. 59–65, 262–263.
- ^ 大乗院寺社雑事記研究会 2003, pp. 124–130.
- ^ 石田 2008, pp. 160–165, 179–186, 193–201.
- ^ 渡邊 2011, pp. 67–72, 83–85, 149–151.
- ^ 浜口誠至 著「戦国期管領の政治的位置」、戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』岩田書院、2017年、189頁。ISBN (978-4-86602-013-6)。
- ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, pp. 269–280.
- ^ 大乗院寺社雑事記研究会 2003, pp. 130–143.
- ^ 石田 2008, pp. 201–202, 225–226, 246–249, 253–255, 267–268.
- ^ 福島 2009, pp. 17–18.
- ^ 渡邊 2011, pp. 179–182.
- ^ 大阪府史編集専門委員会 1981, pp. 281–296.
- ^ 大乗院寺社雑事記研究会 2003, pp. 143–153.
- ^ 川岡 2003, pp. 190–194.
- ^ 石田 2002, pp. 277–280, 283–286.
- ^ 福島 2009, pp. 23–35, 50–55.
- ^ 渡邊 2011, pp. 242–246.