畠山 義英(はたけやま よしひで)は、戦国時代の武将。畠山義豊の嫡子。畠山義就を祖とする畠山氏総州家の4代当主で義就の孫に当たる。子に義堯。通称は次郎、上総介。
生涯
明応3年(1494年)、8歳で元服。早い元服は父が同族で尾州家(畠山政長を祖とする)の畠山尚順と対立していて、万が一の場合に備えて行った処置と見られる。
明応8年(1499年)、父が尚順に敗れて戦死したことにより家督を継承、領国河内から出奔したが、間もなく庇護者の細川政元が尚順を破ったため、河内へ戻った。
最初は政元の傀儡として過ごしていたが、永正元年(1504年)頃から赤沢朝経と薬師寺元一の謀反など細川氏の内訌が起こり激しくなると、義英は政元からの独立を模索し、同年に尚順と和睦し、息子の(畠山勝王)をその猶子とさせたが、永正3年(1506年)に政元と和睦した赤沢朝経の攻撃を受けて没落した。
永正4年(1507年)6月、政元が永正の錯乱で暗殺されると、混乱に乗じて河内高屋城へ入城したが、12月に尚順が和睦を破り、政元の養子・細川澄元と結び、これに応じた澄元の部将赤沢長経に籠城していた嶽山城を攻められ、永正5年(1508年)に陥落して逃亡した[2]。
その後、河内を奪った尚順が澄元から将軍足利義稙・細川高国・大内義興一派に鞍替えすると、義英は足利義澄・澄元らと結んで尚順との戦いを継続した。
永正8年(1511年)、一時河内を奪い返すが、義澄の急死、澄元が船岡山合戦で高国らに敗北すると旗色が悪くなり、河内を尚順に再び奪われた。
永正10年(1513年)、尚順に敗北してからは逼塞、永正17年(1520年)3月に尚順の嫡男・稙長を破り、高屋城を奪った。だが、5月に奪い返され、大永元年(1521年)10月に高国と対立して出奔した義稙を擁立した尚順と再度和睦したが、11月に稙長に敗北した記録が残っている。
以後は徴証が知れないが、興福寺大乗院門跡の日記の大永2年(1522年)4月30日条に「畠山濃州他界」という記録があり、大永3年(1523年)3月にもう一人の息子(嫡子)の義堯が観心寺に判物を発給していることから、この大永2年に没した畠山濃州が義英ではないかとされている[3]。
義英政権では、守護奉行所・守護代奉行所が創設され、畠山総州家の領国経営の基盤が整備された。