鍋島 斉直(なべしま なりなお)は、肥前佐賀藩の第9代藩主。第8代藩主・鍋島治茂の長男。母は側室・福岡氏。正室は池田治道の娘(浄諦院)。側室に(石井尚方)の娘、(石井本昭)の娘など。幼名は祥太郎。初名は直懿(なおたか)。
鍋島斉直像(高伝寺蔵) | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 安永9年9月23日(1780年10月20日) |
死没 | 天保10年1月28日(1839年3月13日) |
改名 | 祥太郎→直懿→斉直 |
戒名 | 巍松院殿桂翁道栄大居士 |
官位 | 従四位下、侍従、(肥前守) |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 肥前佐賀藩主 |
氏族 | 鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島治茂、母:福岡氏 |
兄弟 | 斉直、直道、直彜、直与、悌操院、誠、(中院通繁)室、観、(久世通理)室、於哲、鍋島斉直養女、於變、(鍋島直正)正室 |
妻 | 正室:幸(池田治道の次女) 側室:於増、(石井本昭)の娘、眠 |
子 | (神代賢在)、益子、直孝、(久世通熙)室、竈姫、直永、茂真、直正、(茂快)、為、(茂元)、直賢、區、光、於民、(文武) 養子:登 |
経歴
寛政7年(1795年)、将軍・徳川家斉より松平の名字を授けられた[1]。文化2年(1805年)、父・治茂の死により跡を継ぐ。将軍・家斉より偏諱を授けられ、初名の直懿から斉直に改名する。この頃、佐賀藩では1万5000貫の借金があり、財政が破綻寸前となっていた。このため、斉直は財政再建の藩政改革に取りかかることとなった。
斉直が打ち出した改革は行政組織の簡素化、つまり不必要な機関の撤廃による経費節減政策であった。まず、支藩である(肥前鹿島藩)の廃藩、次に長崎警備の任務の返上であった。特に長崎警備には莫大な費用がかかり、代々の藩主を苦しめていたため、斉直は年寄役の(有田権之允)に密命を与えて、長崎警備の任務を幕府に内密で熊本藩に引き継いでもらおうと画策したのである。
ところが、この密約が幕府に露見し、有田は切腹した。鹿島廃藩も他の支藩である蓮池藩や小城藩の抵抗にあって失敗する。さらに文化5年(1808年)8月、フランス革命後のオランダの混乱に乗じてイギリス船フェートン号が長崎を襲い、オランダ商館員を拉致して長崎奉行・松平康英を脅迫するフェートン号事件が発生した。佐賀藩が長崎警備の兵員を勝手に大きく減らしていたために、日本側はフェートン号の狼藉になすすべがなく、幕府は佐賀藩の責任を追及し、家老等数人は責任を取って切腹させられ、斉直は11月に100日の閉門を命じられた。歌舞音曲の禁じられた佐賀城下は、正月にもかかわらず静まり返った。文政2年(1819年)には江戸藩邸が焼失した。文政11年(1828年)には死者1万人の大被害を及ぼした台風(シーボルト台風)の襲来で財政はさらに悪化し、借金は13万両に上った。
このため天保元年(1830年)、家督を十七男の斉正(直正)に譲って隠居した。しかし、隠居後も実権を握り、贅沢な私生活を送ったと言われている。天保10年(1839年)、60歳で死去。法名は巍松院殿桂翁道栄大居士。
系譜
- 父:鍋島治茂(1745-1805)
- 母:福岡氏
- 正室:幸、姚、美姫、儔子、浄諦院 - 池田治道の次女(1789-1837)
- 側室:綾川 - (直塚慶利)の娘
- 側室:瀧浦 - (辻直侯)の娘
- 側室:歌山((中野矩明)の娘)
- 女子:翰姫 -(1809-1819)
- 三男:睿七郎 - (1811-1813)
- 三男:真十郎 - (1812-1813)
- 側室:瀧江 - 倉永氏
- 女子:繁子 -(1811-1852)(久世通熙)室
- 側室:於増 - 鍋島直宜の養女、(石井尚方)の娘
- 側室:雛邑 - 本島氏
- 三男:蓉彩院 - (1814)
- 女子:區、まち、信姫、勝姫 -(1816-1846)(鍋島茂勲)正室後に離縁
- 三男:岩五郎 - (1818-1820)
- 女子:光姫、(1820-1831) - (岡部直員)婚約
- 女子:葺姫 - 静(1823-1824)
- 三男:椽三郎 - (1827)
- 三男:栄千代 - (1828-1829)
- 側室:久浦 - 堤氏の養女
- 三男:始三郎 - (1824-1825)
- 女子:田姫 -(1826-1827)
- 三男:通一郎 - (1827-1828)
- 二十六男:(鍋島茂元)(1830-1863)
- 三男:純之助 - (1832-1835)
- 側室:ハル - 三浦氏
- 女子:於民 - (1830-1860)諫早茂喬正室
- 側室:市 - (石井本昭)の娘
- 側室:歌崎 - (武富秀興)の娘
- 二十九男:(鍋島文武)(1839-1895)
- 生母不詳の子女
- 女子:為 - 多久茂澄正室
- 養子
脚注・出典
- ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』、2000年、208頁。