金子 久(かねこ ひさし、1959年9月12日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代は屈強な体を活かしたセンターバックとして活躍した[2]。
来歴
与野市立下落合小学校でサッカーを始める。与野市立与野東中学校[3] を経て、帝京高等学校に進学。古沼貞雄監督の下で1年次の高校総体予選から出場機会を掴みレギュラーへ定着した。
3年次の1977年の高校サッカー選手権では早稲田一男、宮内聡らと共に優勝に貢献[2]。東京都予選から10試合連続無失点の守備の要として活躍したほか、決勝の四日市中央工業戦で決めた豪快なヘディングシュートは語り草となっている。
卒業後の1978年に古河電気工業サッカー部に加入[2]。同年に日本ユース代表に選出されると、1979年のFIFAワールドユース選手権に出場した。しかし所属する古河電工では出場機会が少なく、ベテランの桑原隆の控えに回る事が多かった。1984年に清雲栄純が監督に就任すると転機が訪れ、翌1985年にレギュラーの座を掴むと、スイーパーの岡田武史と共に堅固な守備陣を形成し[2]、2度目の日本サッカーリーグ制覇に貢献、シーズン終了後にはベストイレブンに選出された。
その後も古河の守備の要として活躍、またJSL東西対抗戦メンバーや、日本サッカーリーグ選抜に選出されるなど、日本サッカーリーグを代表するDFの一人であった。
日本代表としては1986年7月25日のムルデカ大会、シリア戦で代表デビュー[2]。同年9月のアジア競技大会や翌1987年のソウルオリンピック予選など国際Aマッチ7試合に出場1得点を記録した[2]。
引退後は指導者の道へ進み、古河の後継であるジェフユナイテッド市原の下部組織のコーチを務めた[2]。その後、クラブを離れたが、2009年よりジェフユナイテッド市原・千葉の運営担当。
エピソード
ちなみに高校時代の愛称はゴルジ。与野東中時代はカネスイと呼ばれていた。
所属クラブ
個人成績
国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | (リーグ杯) | (オープン杯) | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1978 | 古河 | 2 | JSL1部 | 0 | 0 | 1 | |||||
1979 | 1 | 0 | |||||||||
1980 | 14 | 2 | 0 | ||||||||
1981 | 13 | 0 | 1 | 1 | |||||||
1982 | 12 | 1 | |||||||||
1983 | 10 | 1 | |||||||||
1984 | 5 | 10 | 1 | ||||||||
1985 | 22 | 2 | |||||||||
1986-87 | 22 | 5 | |||||||||
1987-88 | 20 | 4 | |||||||||
1988-89 | 22 | 3 | |||||||||
1989-90 | 21 | 5 | 2 | 0 | |||||||
1990-91 | 5 | 1 | 5 | 2 | |||||||
1991-92 | 3 | 0 | 0 | 0 | |||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 163 | 23 | |||||||
総通算 | 163 | 23 |
その他の公式戦
- 1990年
- コニカカップ 1試合0得点
代表歴
出場大会など
試合数
- 国際Aマッチ 7試合 1得点(1986-1987)[1]
指導歴
- ジェフユナイテッド市原:育成普及部
- ジェフユナイテッド市原/ジェフユナイテッド市原・千葉:宇都宮スクールコーチ
脚注
参考文献
- 「世界に羽ばたけ!新赤き血のイレブン」『イレブン』1979年5月号
- 「THIS IS MY SOCCER LIFE 75」『サッカーダイジェスト』1986年5月号
外部リンク
- 金子久 - National-Football-Teams.com (英語)
- 金子久 - WorldFootball.net (英語)
- 金子久 - Transfermarkt.comによる選手データ (英語)
- - FIFA主催大会成績 (英語)