概要
遠藤氏は、千葉氏の庶流東氏が、弘安8年(1285年)頃に下総国東荘より美濃国郡上郡へ移ったときに従って入った。
室町時代、天文9年(1540年)、東常慶の娘婿であった遠藤盛数は、兄の胤縁が常慶の子で当主の常堯に殺されたことから、常堯を攻めて東氏から家督を奪い、以後は遠藤氏が東氏の家督も継承した。一方で家督を奪われた常慶の子の(東常堯)は飛騨の内ヶ島氏理の庇護を受けたものの、天正大地震で内ヶ島氏と運命を共にした。その後、遠藤氏は郡上八幡城を本拠とし郡上一円を支配した。
盛数の子で常慶の外孫である遠藤慶隆は戦国時代、織田信長の麾下で後詰などを担った後[1]、安土桃山時代を乗り切り、江戸時代には美濃八幡(郡上)藩主となった。
寛永18年(1641年)8月3日、将軍・徳川家光に待望の世子・竹千代(のちの四代将軍・徳川家綱)が誕生した。これにより、11月14日、「遠藤但馬守慶利二子大助常昭」ら大名家の次男、三男数名が御小姓組に列して禄米を給わって、二ノ丸口に勤仕することとなった。
正保3年(1646年)年6月20日、第2代藩主の遠藤慶利が亡くなり、同年11月12日、嫡男の常友が郡上藩2万7千石を相続した際に領地を分与し、弟の常昭は2,000石の旗本の(乙原遠藤氏)となり(西乙原陣屋)を構え、弟の常紀は1,000石の旗本の(和良遠藤氏)となり(和良陣屋)を構えた。
後に第5代藩主の常久は僅か7歳で死去したため、郡上藩遠藤氏は無嗣断絶となった[2]。
その後、全く血縁関係がなかった第5代将軍徳川綱吉の側室お伝の方の甥が遠藤胤親を名乗って名跡を継ぎ、近江三上藩(滋賀県野洲市)へ移封されて系譜上は存続する。最後の藩主である遠藤胤城は明治維新後の明治11年、縁のある東姓に改姓し、明治17年には子爵を授けられている[2]。
分家して旗本となっていた乙原遠藤氏と和良遠藤氏は、引き続き存続し、明治2年の版籍奉還に至った。
系譜
- 実線は実子、破線は養子。
注釈
- ^ 系譜では東常縁の末子とされているが、近年では東常縁の家臣であったという見方が有力である。