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天野 光晴(あまの こうせい、1907年3月26日- 1995年3月24日)は、福島県双葉町出身の日本の政治家。福島県議会議員や衆議院議員を務めた。
来歴・人物
福島県の浜通り、双葉郡双葉町(当時は長塚村)に、農業・天野辰記の二男として生まれる。高等小学校を卒業後、セメント瓦工場経営、巡査、保険外交員、果ては活動弁士まで様々な職業を経験する。仕事のかたわら青年団運動にも取り組み、一時期は左翼運動にも関わったことがある。
第二次大戦後は、青年団の仲間を集めて、新憲法啓蒙運動のため「新生同志会」を結成し、幹事長となる。「同志会」を基盤として、1947年に福島県議会議員に当選し、3期11年務める。1950年代には、福島県出身という縁で当時東京電力の常務だった木川田一隆(出身地は中通りの梁川)と親密になり、故郷たる長塚への原子力発電所の誘致に奔走した[1]。
1958年の第28回衆議院議員総選挙で、旧福島1区より大竹作摩前知事や河野一郎の支援の下、立候補し初当選(当選同期に安倍晋太郎・倉成正・斎藤邦吉など)。当選後は自由民主党に加わる。河野派→中曽根派に所属し、三木内閣で国土庁長官も務めた。 1976年の第34回衆議院議員総選挙後には、選挙違反の容疑で資金管理を行っていた妻のほか県議会議員が捜索を受けるが[2]、後援会組織の結束に緩みは起こらず、当選回数は10回を数えた。
その後は、衆議院予算委員長、第3次中曽根内閣で建設大臣を歴任する。しかし、1988年に行われた福島県知事選挙では渡部恒三等と共に、元建設官僚の広瀬利雄を擁立するが、伊東正義等が推した参議院議員の佐藤栄佐久が圧勝したため、福島県政界における影響力が低下する。
1990年の第39回衆議院議員総選挙では、高齢を押して出馬するも、増子輝彦、佐藤剛男、亀岡偉民等が乱立した影響をまともに受け落選し、引退した(NHK等が一旦は当確を出すも逆転される)。その直後には、金丸信・竹下登らと並ぶ道路族議員のドンだったこともあり、日本道路公団最高顧問に就任する。
1995年3月24日死去。享年87。
元福島市長の瀬戸孝則は、天野の系列県議として知られている。