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負け越し

負け越し(まけこし)とは、主にスポーツで負けの数が勝ちの数よりも多くなることである。

大相撲

大相撲関取では現在、本場所15番のうち7勝以下であれば負け越しであり、8勝以上が勝ち越しである。8敗すれば勝ち数は最大で7勝にしかならず、負け数が勝ち数を上回ることが確定するため、8敗した時点で負け越しと呼ぶ。負け越し時は、持ち給金、褒賞金は据え置かれ負け越し分が減額されることはない。勝ち星から負け数を引いた数値を数えて、〈負け越し何点〉というように表記する。たとえば6勝9敗なら負け越し3点である。休場があったときには負けと同じ扱いをするが、〈負け越し何点〉という言い方はしない。因みに、例えば、全休よりも15戦15敗の全敗の方が上である様に、途中休場や、初日から休場して途中出場した場合の○勝□敗△休の□敗と△休を足した数が皆勤した時の敗数と同じ扱いであるが、全休を含めて、皆勤でその敗数を喫した方が扱いは上である。

大関横綱以外の力士が負け越せば、原則として負け越し点数だけ下の地位に転落するが、その地位の周辺に顕著な成績を挙げた力士がいない場合、半枚の降下(東方から西方への変動)やそのまま先場所と同地位に据え置かれ踏みとどまることもある。 実例を挙げると、1979年5月場所の栃赤城と、1997年11月場所の栃東がそれぞれ東関脇の地位で7勝8敗と負け越したものの、翌場所は二人共西関脇に移動したのみで、小結の地位への陥落を免れたケースがある。同様の例としては1983年7月場所の出羽の花2012年7月場所の(1休)・2013年5月場所の豪栄道などがある。 1996年9月場所の武双山は東小結の地位で7勝8敗と負け越したが、翌場所は西小結の地位に移動したのみで三役陥落を免れた。(1984年3月場所の出羽の花2004年7月場所の琴光喜2015年11月場所の栃ノ心2019年3月場所の御嶽海である。) さらに白露山2006年11月場所、西前頭14枚目で7勝8敗と負け越したものの翌場所は同地位に据え置かれ、しかも小結が前場所の4人から2人となったことに伴い前頭が15枚から16枚となったため事実上番付を1枚上昇させた。

大関は1場所負け越すと角番になり、2場所連続で負け越すと関脇に陥落する(以前は3場所連続負け越しで陥落。)。ただし、その関脇に陥落した直後の場所で10勝以上の勝ち星を挙げれば、翌場所で大関に復帰することができる。(9勝以下の勝ち星に終わった場合は、新大関同様に三役(関脇・小結)の地位で3場所合計33勝以上挙げる事が大関再昇進の目安となる)。

横綱はいくら負け越しても降格することはないが、立場上負けが続くことは許されず現役引退を覚悟しなければならない。

幕下以下は1場所7番の取組なので、3勝以下が負け越しである。基本的に幕下では負け越し1点につき5~10枚程度、三段目では15~20枚程度の降下となる。序二段以下では、その場所ごとの力士数によって変化するので、特に序ノ口では負け越しても番付が上昇することもある。

現在の部屋別総当たり制(厳密にはそれ以前の系統別総当たり制)になる前の東西制の時代には、それぞれの片屋ごとに番付の上下を決めていたので、極端な場合、負け越しても番付が上がることがあった(大砲万右エ門の項目参照)。

十両でも翌場所の番付の追加や番付削減の影響を受けて、負け越したのに番付が上がったというケース(2003年11月場所の武州山中尾)、勝ち越したのに番付が下がったというケース(1967年3月場所の前田川)も過去には存在した。

全敗

取組の多い幕内や、十両では非常に稀ではあるが全敗の力士が出ることがある。幕内では特に珍しく全勝と比べても非常に少ないがその理由として全敗しそうになると休場する力士が多いこと、最上段であり強い力士がいつまでも在位できることなどが考えられる。

15戦全敗を経験した力士

幕内

15日制になってから、15戦全敗を喫した力士は幕内では桂川清勢川佐田の海板井照強の5人。桂川と板井は全敗の翌場所、佐田の海は翌々場所で引退した。清勢川(全敗の翌場所から清乃森、のち清の盛)はその後、20場所十両で現役を続けたが、幕内には返り咲けなかった。照強は2022年11月場所で1991年7月場所の板井以来、31年ぶりの15戦全敗という不名誉な記録を作った[1]

これとは別に1950年1月場所の五ツ海2002年7月場所の旭鷲山が1勝14敗で1勝は不戦勝によるもの、つまり皆勤して自力勝利がないという記録を残した。

豊真将2009年5月場所に初日から14連敗して18年ぶりの全敗の危機となったが、千秋楽に嘉風を下して事無きを得た。なお、大道2013年7月場所で初日から14連敗したが、千秋楽に富士東を下して事無きを得た。その豊真将は2014年3月場所に十両で初日から14連勝したが、千秋楽に敗れるという逆の記録も残し、奇しくも千秋楽に豊真将を倒したのは大道であった。富士東も、後に自ら15戦全敗を記録している。

場所 地位 四股名 翌場所地位 翌場所成績
1942年1月場所 東前頭17枚目 桂川質郎 西十両2枚目 全休(引退)
1963年11月場所 西前頭11枚目 清勢川政夫 東十両6枚目 5勝10敗
1988年3月場所 西前頭10枚目 佐田の海鴻嗣 西十両6枚目 6勝9敗
1991年7月場所 東前頭14枚目 板井圭介 東十両9枚目 1勝2敗1休(廃業)
2022年11月場所 東前頭16枚目 照強翔輝 西十両10枚目 5勝10敗

十両

場所 地位 四股名 翌場所地位 翌場所成績 備考
1960年11月場所 東十両4枚目 双ツ龍徳義 東十両14枚目 全休(引退)
1988年1月場所 東十両13枚目 清王洋好造 西幕下15枚目 2勝5敗
1989年5月場所 東十両5枚目 鳳凰倶往 西幕下6枚目 3勝4敗
2000年7月場所 東十両8枚目 星誕期偉真智 東幕下8枚目 6勝1敗
2005年11月場所 東十両14枚目 燁司大 引退
2020年9月場所 東十両13枚目 王輝嘉助 東幕下13枚目 1勝6敗 新十両場所
2020年11月場所 東十両14枚目 富士東和佳 東幕下13枚目 1勝6敗

このうち、燁司の15敗目は不戦敗である。14日目の相撲を取り終えて引退届を提出している。千秋楽の対戦相手は幕下で7戦全敗を喫していて八番相撲を組まれた玉光国だった。双ツ龍が全敗の翌場所十両に名前を残しながら全休、引退したのを除いて、現役力士以外では全敗場所が最後の関取在位だった。2006年9月場所では武雄山が初日から14連敗を喫したが、千秋楽に出羽鳳を下して何とか全敗は回避した。2020年9月場所には王輝が新十両の場所で15戦全敗を喫したが、これは1場所15日制になってから大相撲史上初の記録となった[2]。さらに翌11月場所で富士東も15戦全敗を喫したため、2場所連続で15戦全敗力士が出るという珍事が起きた。

15日制以前の皆勤全敗

1場所15日となる前(1939年1月以前、1944年5月~1949年1月も含む)にも全敗の記録は存在する。

  • 1919年5月場所で新三役(関脇)の藤ノ川雷五郎が10戦全敗。以後三役に返り咲くことは無かった。
  • 1926年5月場所で新入幕の稲ノ森勉が11戦全敗。翌場所に十両に陥落し、以後幕内に返り咲くことは無かった。
  • 1930年3月場所で大蛇山酉之助が11戦全敗。幕内優勝経験者では初となった。
  • 大関鏡岩が小結に在位した1934年5月場所で11戦全敗を記録した。幕内全敗経験後に大関まで昇進(1936年5月場所後)した非常に珍しい例である。
  • 灘ノ花春秋園事件から復帰し幕内格別席にあった1933年1月場所で11戦全敗を記録した。その2年後の1935年1月場所では十両で11戦全敗を記録した(この場所で引退した。)。幕内・十両の両方で皆勤全敗を経験した珍しいケースである。
  • 横綱玉錦が現役死した直後の1939年1月場所には、玉錦の土俵入り露払いを務めた土州山太刀持ちを務めた海光山がともに全敗(当時13日制)して引退した。
  • 出羽湊利吉1944年5月場所で10戦全敗を記録したがそれより前の1939年1月場所では全勝優勝(当時13日制)しており、2023年現在、幕内で皆勤全勝・全敗の両方を経験した唯一の力士である。
  • 神東山は十両に落ちた1946年11月場所、13戦全敗を記録した(翌場所引退)。
  • 1947年11月場所で名寄岩が歴代大関でただ1人在位中に全敗(当時11日制)を記録(翌場所関脇に陥落。)した。

幕下以下の全敗

幕下以下の取組は原則として相星の力士同士が対戦する(いわゆる、スイス式トーナメント)為、128名中1名の力士が必然的に全敗となり得る。尚、2021年5月場所終了現在、全敗場所数のワースト1位(30場所)及び連続全敗場所数のワースト1位(14場所)はいずれも勝南桜聡太が記録している。

幕内昇進前の全敗

以下の力士が幕下以下全敗を経験した後に幕内に昇進した(四股名は当時のもの)。

  • 綾鬼 - 1915年6月場所に東序ノ口10枚目で5戦全敗。
  • 大ノ島 - 1945年11月場所に西序二段12枚目で5戦全敗。島錦と改名した後、1947年11月場所に東三段目20枚目で6戦全敗。下位で2度の全敗を経験して入幕を果たしたのは、島錦、琴稲妻、安芸乃州(今田)の3人のみである。
  • 朝響 - 1959年11月場所に東序二段148枚目の地位で8戦全敗。
  • 栃東 - 1964年3月場所に東幕下17枚目の地位で全敗を記録した。後に幕内最高優勝を果たし、史上初の幕下以下で全敗の経験を持つ優勝力士となった。
  • 北の湖 - 1968年1月場所に序二段で全勝(優勝同点)、しかし新三段目(西三段目20枚目)で迎えた翌3月場所は全敗した。歴代横綱唯一の全敗経験者である。
  • 尾堀 - 1971年9月場所に西幕下6枚目で全敗。
  • 黒谷 - 西幕下38枚目だった1976年11月場所に全敗を記録した。
  • 港龍 - 1978年5月場所に西三段目60枚目の地位で全敗を記録した。
  • 琴稲妻 - 1979年11月場所に東幕下60枚目、1981年9月場所に東幕下25枚目でそれぞれ全敗した。
  • 下村1982年7月場所に東序二段24枚目の地位で全敗を記録した。
  • 寺木 - 初めて番付についた1985年5月場所に東序ノ口25枚目の地位で全敗を記録した。幕下以下の1場所7番制が定着した1960年7月場所以降、序ノ口(しかも初めて番付についた場所)で全敗を経験して、その後に入幕を果たした唯一の例である。
  • 今田 - 1986年7月場所に東三段目71枚目の地位で、1991年3月場所に東幕下42枚目の地位で、それぞれ全敗を記録した。
  • 琴龍 - 1993年5月場所に西幕下8枚目の地位で全敗を記録した。
  • 北勝力 - 1995年3月場所に東序二段19枚目の地位で全敗を記録した。
  • 片山 - 2003年5月場所に東幕下29枚目の地位で全敗を記録した。
  • 千代白鵬 - 2003年7月場所に西幕下12枚目の地位で全敗を記録した。
  • 武蔵龍 - 2004年5月場所に東幕下24枚目の地位で全敗を記録した。
  • 虎太郎 - 2015年7月場所に西幕下45枚目の地位で全敗を記録した。
幕下陥落後の全敗

以下の力士が幕内在位経験後に幕下以下で全敗を記録した。

  • 小戸ヶ岩 - 1945年6月場所に東幕下5枚目で5戦全敗、1948年5月場所に東幕下9枚目で6戦全敗を記録し、2回目の全敗を記録した場所限りで廃業した。
  • 斜里錦 - 1948年10月場所に西幕下16枚目で6戦全敗を記録し、翌場所以降2場所連続で休場し、復帰することなく廃業した。
  • 大江戸 - 1954年1月場所に東幕下17枚目で8戦全敗を記録し、同場所限りで引退した。
  • 愛宕山 - 1960年11月場所に西幕下7枚目で全敗を記録した。
  • 大觥 - 1980年11月場所に西幕下11枚目で全敗を記録し、同場所限りで廃業した。
  • 牧本 - 1982年1月場所に西幕下27枚目で全敗を記録した。
  • 大刀光 - 1994年1月場所に西幕下29枚目で全敗を記録し、同場所限りで廃業した。
  • 玉海力 - 1995年3月場所に西幕下6枚目で全敗を記録した。
  • 旭豪山 - 1996年5月場所に東幕下28枚目で全敗を記録した。
  • 立洸 - 1999年1月場所に東幕下24枚目で全敗を記録した。
  • 垣添 - 2012年3月場所に西幕下22枚目の地位で全敗を記録し、同場所限り(番付上は翌2012年5月場所まで)で引退した。三役経験者が幕下以下で全敗したのは史上初であった。
  • 大喜鵬 - 2014年9月場所に西幕下45枚目の地位で全敗を記録した。その後2016年11月場所に十両復帰を果たす。幕内在位後に幕下以下で全敗を記録し、その後に再度関取に復帰したのは史上初であった。

創作

(佐野山)(あるいは谷風の人情相撲

  • 落語。孝行息子と評判の幕下(現在なら十両)力士佐野山は、病気の母の看病疲れで初日から連戦連敗。事情を知った大関の谷風が一肌脱ごうと谷風を千秋楽の相手に指名して八百長を演じる話。

大安売り

  • 落語。関取が「勝ったり負けたり」と答えたが、本当は全敗で「相手が勝ったり、自分が負けたり」という意味。翌場所は「全日土つかず」と答えたが、本当は全休だったという意味。

その他のスポーツ

プロ野球の試合では「借金いくつ」で呼ばれることが多い。また同一カード内の連戦、あるいは長期ロード等で負けが上回った場合(3連戦の1勝2敗など)を負け越しと呼ぶ。

出典

  1. ^ 照強が15戦全敗、31年ぶり5人目 大相撲九州場所 - 毎日新聞 2022年11月27日
  2. ^ 新十両0勝15敗の王輝ぼうぜん、史上初の屈辱 - 日刊スポーツ 2020年9月27日
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