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西川鯉三郎

西川 鯉三郎(にしかわ こいさぶろう、こいざぶろう)は、名古屋西川流を創流した日本舞踊家の名跡。

初代

初代 西川にしかわ 鯉三郎こいさぶろう
生年月日 1824年1月18日
没年月日 (1899-02-25) 1899年2月25日(75歳没)
本名 岸田◯◯◯、号は和光
襲名歴 1.西川仁藏
2.市川鯉三郎
3.初代・西川鯉三郎
別名:西川和光
出身地   日本 江戸田所町

(現:中央区日本橋堀留町

岸田久兵衛
お傳
篠塚力寿

西川 鯉三郎1824年1月18日文政7年11月30日) - 1899年明治32年)2月25日)は、名古屋西川流を創流した初代家元。1823年(文政6)‐1900年(明治33年)とも。号は和光、西川和光とも称した。

来歴

江戸田所町に生まれた。阿波藍玉商・岸田久兵衛とお傳の子[1]。父・久兵衛は阿波(現・徳島県)育ちだけに浄瑠璃が好きで、大阪に出てその道の芸人に交わり追々熟達するにつれ、専門の太夫となり、文政の初年に江戸に出て、出処不明のお傳と呼ばれた女の義太夫語りと夫婦になって田所町に住み、共稼ぎに芸を励んでいたうちに文政6年、一児が誕生した[1]。それが鯉三郎だった[1]

西川流四世西川扇藏に入門した。また七代目市川團十郎の門弟となり、仁藏とも2世市川鯉三郎名の歌舞伎俳優でもあった[1]尾張藩重臣織田氏の娘・織田いく西川嘉義の養母)から名古屋に招かれ、1841年、18歳で父とともに名古屋に移住した[1]1846年、(篠塚力寿)と結婚して京舞篠塚流坂東流の(坂東秀代)に舞踊を、他にも能や狂言を学んで長所を取り入れ、舞踊一筋に打ち込んだ。のちに力寿とは離婚。1856年、31歳の頃から西川和光の名で、名古屋の芝居小屋の振付師として活躍した。

1860年1月19日、35歳で御免踊指南の公許を得る[1]。織田いくが創流を支援し「名古屋西川流」樹立。織田いくは弟子の第一号となって、1863年に名取り「西川幾」となる。西川鯉三郎は名古屋の劇場振付けを一手に収めることになり、隆盛を極め、舞踊百番衣装附、舞踊譜を作るなど、功績を残した。西川幾の養女・嘉義も1877年明治10年)名取り「西川嘉義」となり、美人舞踊家としての名声とともに名古屋西川流が広まる。明治時代の西川鯉三郎や西川嘉義などの芸能者の活躍が「芸どころ名古屋」の礎となる。

鯉三郎没後は鯉三郎の跡目争いが起こり、西川嘉義と「合議制」を持ち出した幾の弟子西川石松[2][2]が対抗し、幾・嘉義派と石松派が正面衝突した[3][4]。精神的に追いつめられた西川嘉義は1921年(大正10年)に58歳で自殺した。著名な舞踊家で、士族織田氏の娘である西川嘉義の死で、流派としての大きなトラブルとなって社会的に知られることとなり、1899年に初代鯉三郎亡き後は40年以上も家元空位であった。鯉三郎の名跡も40年間継がれることがなかった。

二世

二世 西川にしかわ 鯉三郎こいさぶろう
生年月日 1909年12月27日
没年月日 (1983-07-31) 1983年7月31日(73歳没)
本名 星合茂→ 近藤茂(婿養子)
襲名歴 1. 尾上菊丸
2. 尾上志げる(名取・藤間勘三郎)
3. 西川茂
4. 二世西川鯉三郎
出身地   日本 東京市浅草区

(現・東京都台東区浅草

星合とし
西川司津(近藤静子)
西川右近西川左近
受賞
1948年第一回中日文化賞、愛知県文化賞
1954年名古屋演劇ペンクラブ賞
1965年毎日芸術賞、舞踊ペンクラブ賞
1966年NHK放送文化賞
1969年紫綬褒章名古屋市功労賞
1970年菊池寛賞

二世鯉三郎(1909年12月27日 - 1983年7月31日)は、名古屋西川流二世。 東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)出身。本名、近藤茂。旧姓は、星合茂。西川幾の弟子・西川石松の孫娘の婿養子となって、二代目西川鯉三郎を名乗り、「名古屋をどり」を始めた。

来歴

1909年12月27日、東京市浅草区(現・東京都台東区浅草)生まれ。1917年、六代尾上菊五郎に入門。1923年、六代尾上菊五郎出演の新歌舞伎十八番の内鏡獅子で、胡蝶に抜擢された。九代市川團十郎の長女市川翠扇に挨拶に行くも、「胡蝶は弟子がやる役じゃない」と強硬に反対されるが、六代尾上菊五郎は押し通した。御曹司が務める役を部屋子に演じさせたのは、初めてのことだった(3回務めている)。1928年「七曜座」結成。1929年 - 六代尾上菊五郎から破門される(1933年に帰参を許される)。1936年に公開された小津安二郎監督、六代尾上菊五郎主演、松竹製作の映画鏡獅子」に、後の尾上流の家元になる、尾上琴次郎と名乗った初代尾上菊之丞と一緒に胡蝶を勤めた映像が残されている。1936年5月28日、六世尾上菊五郎の勧めもあり、西川幾の弟子西川石松の孫娘司津の婿養子となり、西川茂を名乗る(司津も6代尾上菊五郎に師事していた)。1940年、二世西川鯉三郎襲名し、名古屋西川流二世家元となった。1945年9月、名古屋をどりがはじまる。1949年9月、名古屋をどりでの「白鳥は来たりぬ」の奇抜な衣装や装置を巡り、「芸術か舞踊か」の大論争になった。1954年1月、東京の稽古場を虎ノ門から築地に移転。1955年1月「三都名流舞踊会」に出演。6代尾上菊五郎直伝の「鏡獅子」を踊る。1962年、自宅稽古場を名古屋市中区本重町(現在の名古屋市中区錦三丁目)から、名古屋市瑞穂区に移転。1967年、国立劇場主催、「天明の舞踊公演」で、「傾城」と「(五条橋)」を踊る。五條橋は夜鷹と武蔵坊弁慶の趣向で八世坂東三津五郎と共演。1975年3月、第1回「NHK古典芸能鑑賞会」に出演。常磐津山姥(山めぐり)」を素踊りで踊る。1979年9月、第33回名古屋をどりで十八番の清元隅田川」を務める。1980年1月、国立劇場で喜撰を長女左近と踊る。1980年9月、第34回名古屋をどりで大和楽「三十石の夜舟」を踊る。1983年7月31日、順天堂病院パーキンソン病により死去。享年73。

名古屋をどり等

名古屋をどり、東京(鯉風会)(中村勘三郎や長谷川一夫らの有名人や全国の鯉三郎門弟が出演)、大阪西川会を主催。自身のリサイタルを行なった。

「鯉風会」は、出光興業の出光佐三が、鯉三郎の芸を高く認め、一番の後援者であり、会の名付け親でもあった。

1945年に舞踊公演「名古屋をどり」を名宝劇場で旗揚げ。会場は御園座から中日劇場となった。以降毎年9月に開催。

川端康成有吉佐和子谷崎潤一郎、(田中青滋)、邦枝完二円地文子高見順川口松太郎三島由紀夫内海重典水上勉水木洋子平岩弓枝北条秀司吉井勇松山善三らに、名古屋をどりや東京で主催する「鯉風会」などの新作舞踊劇の執筆を依頼したことがあった。

1980年(昭和55年)第33回名古屋をどりで踊った素踊り、大和楽「三十石の夜舟」が最後の舞台出演になった。

十七代目中村勘三郎二代目尾上松緑長谷川一夫とは歌舞伎俳優時代からの交友関係があった。

1966年1月には、勘三郎、松緑、長谷川一夫と北条秀司作「仇ゆめ」で3人が共演。日生劇場で舞踊リサイタルを開催した。

藤間勘三郎として

女形を得意としたが、他流派では衣装付けで踊る、喜撰座頭傀儡師山姥(山めぐり)などを素踊りで踊った。素踊りを踊る時は、着物の紋付は西川流の紋ではなく、尾上菊五郎家の紋を使用した。尾上志げる時代から、藤間流宗家6世藤間勘十郎(後の二代目藤間勘祖)に師事。藤間勘三郎という名取であった。東京の最後の舞台は1980年1月、国立劇場での「鯉風会」で、長女の左近と素踊りで共演した、清元喜撰であった。名古屋をどりの最後の舞台は、1980年9月で、大和楽「三十石の夜舟」だった。

女優でも新派初代水谷八重子山田五十鈴京マチ子淡島千景、山本富士子らにも、日本舞踊の指導をした。

地唄舞武原はんが踊る、清元山姥」や清元「雁金」などは鯉三郎の振付で歌舞伎座国立劇場で開催された、「武原はん・舞の会」などで踊った。

新橋の東をどり、赤坂の赤坂をどり、柳橋のみどり会(柳橋芸妓組合は廃業)の構成、演出、振付を担当。新橋の東をどりまり千代、(小くに)、染福に指導した。名古屋(名妓)をどり(現在、不開催)、大阪北新地(大阪をどり)、金沢の芸者衆を指導した。

(日本舞踊協会)公演や中京五流舞踊公演にも出演。

交友関係

4代坂田藤十郎は2009年7月にNHK教育テレビの『芸能花舞台』「伝説の至芸・二世西川鯉三郎」でゲスト出演した時に、1951年12月名古屋御園座で初役で演じた、鏡獅子の稽古の様子などを話している。

『芸能花舞台』「伝説の至芸・二世西川鯉三郎」はこれまでにも数度、取り上げられ、作家の平岩弓枝、評論家の利根川裕、女優の淡島千景がゲスト出演する毎に鯉三郎の在りし日の思い出を話している。

お座敷に向かう芸者の様子が写実に描かれている、清元榮三郎作曲清元「春宵吹き寄せばなし」、恋しい男への執念を蛇体になって現れる長唄紀州道成寺」、六代目菊五郎直伝の「鏡獅子」、「菊吉時代」の二長町市村座の様子、六代目菊五郎と初代中村吉右衛門の当たり役を鯉三郎が素踊りで巧みに見せる中山小十郎作曲「菊吉抄 二長町」、下層階級のうらぶれた女を踊る、樋口一葉作品から、清元榮三郎作曲「お力」などが放送された。

17世中村勘三郎の著書(「自伝やっぱり役者」など)には鯉三郎との交友の様子が書かれている。

脚注

  1. ^ a b c d e 『少年時に観た歌舞伎の追憶』坪内逍遥 著、日本演芸合資会社出版部、1920年、pp47-53(国立国会図書館デジタルコレクション)。2016年5月28日閲覧。
  2. ^ 小寺融吉. “日本の舞踊(創元選書75)234頁「西川石松と花子」”. 創元社、昭和23/. 2022年7月4日閲覧。
  3. ^ 北見昌朗. “愛知千年企業 大正時代編 <コラム>日本国中を席巻した“名古屋美人””. 北見式賃金研究所/社会保険労務士法人北見事務所. 2022年7月4日閲覧。
  4. ^ 田中加代. “日本の伝統芸能における「芸」の伝承に関する教育思想史的考察 -日本舞踊家西川鯉三郎の芸道教育の系譜および特色をめぐって-”. 愛国学園短期大学. 2022年7月4日閲覧。

参考文献

  • 「西川鯉三郎免許の跡」名古屋市教育委員会 資料[3][4]
  • 関山和夫著、名古屋市経済局観光貿易課 編『名古屋の芸能史跡 <史跡観光シリーズ>』(1983年)名古屋市。 
  • 名古屋市役所 編『名古屋市史人物編 下巻』(1934年5月28日川瀬書店発行の復刻版)国書刊行会、1981年10月20日。 
  • 『日本の舞踊』小寺融吉、1941年5月15日、創元社。
  • 小寺融吉 編『日本の舞踊』(1948版)創元社(創元選書75)。(NDLJP):1125393。 [5]
  • (服部鉦太郎)「西川流外伝天才舞踊家 西川嘉義」『郷土文化』第40巻第3号、名古屋郷土文化会、1986年3月、(NDLJP):6045176。 
  • 尾崎久弥『西川嘉義ー坪内逍遥を悔しがらせた最大級ー(名古屋芸能史 後編第30章)』名古屋市教育委員会〈名古屋叢書54〉、1971年12月20日。 
  • 長田若子 編『ホットマインド 名古屋の宝生流能楽師鬼頭嘉男が受け継いだもの』ブックショップマイタウン、2012年1月1日。 
  • 藤田洋『日本舞踊ハンドブック』2001年。ISBN (4-385-41046-1)。 
  • 演劇出版社 編『日本舞踊入門』2004年。ISBN (4-900256-89-7)。 
  • 『鯉三郎ノート』名古屋タイムズ社、1963年11月。(全国書誌番号):(20740979)。 
  • 岡安辰雄編『鯉三郎百話 西川鯉三郎』(1977年中日新聞社
  • 北条秀司監修『西川鯉三郎』(写真集)(1970年、淡交社)
  • 「西川流外伝天才舞踊家 西川嘉義」名古屋郷土文化会 / 服部鉦太郎

関連項目

外部リンク

  • コトバンク 西川鯉三郎
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